棚守房顕覚書158 観音堂の修理竣工

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棚守房顕覚書158 観音堂の修理竣工

一、御本地観音堂の事
去る天文十年五月四日、七日の出水に山河くづれ、社頭廻りは砂にはまる間、三月廿三日破り土を給ふ、天正九年、則ち八月造営調ふ、御本尊を移し奉る。九年巳年の夏中の時、花香を大御前の経所に於て執行す、卯月八日の管絃経と同前なり。

現代語訳

御本地の観音堂の事。
天文10年(1541年)5月4日、7日の御手洗川で山河が崩れて、厳島神社の境内の周囲は砂にハマりました。3月23日、土を簡単に処理しました。
天正9年(1581年)、8月に造営しまして、ご本尊を移しまして、9年巳年(1581年)の夏の盛りの時に、仏前に花を奉り、大御前(=厳島大明神の本社本殿の事)の経所(=お経を読むところ)で執行しました。卯月(4月)8日の管絃経でやったのと同じです。

解説

有名じゃないんですが、戦国時代の「天文10年(1541年)」に起きた土砂崩れは、厳島神社の周辺の地形を変えてしまいました。これ以降に、毛利の工事によって、御手洗川(=御陵川・御霊川)と白糸川は松原の方向へ曲げられて、反橋は短くなり方向が変わり、長橋・平橋は短くなり、厳島神社本社本殿の裏は海だったのが(海というか川や中洲)、現在のように「陸」になってしまいます。つまり「現在の厳島神社」になってしまいました。その原因が此の天文10年の土砂崩れが原因です。

それで本社本殿の裏にあった観音堂(=本地堂)がぶっ壊れた。それを立て直したのですが、直すまで「40年」かかっているんです。その40年の間に、毛利による大鳥居の修繕、厳島神社の修造(1571年)もしているのですね。つまり、土砂崩れ以降、その処理は完全にはなされないままに「修造」しているのです。

当然ながら、かなり景観を損ね、景観を損ねるということは厳島神社・宮島の価値を損ね、信仰を損ねかねないことです。厳島神社は毛利に何度も砂の除去をお願いしていました。
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