棚守房顕覚書41 義隆歳暮の御供

MENU
TOP >> 棚守房顕覚書(資料) >> 棚守房顕覚書41 義隆歳暮の御供棚守房顕覚書(資料) 資料
スポンサードリンク

棚守房顕覚書41 義隆歳暮の御供

義隆歳暮の御供歳暮の儀として、屋形(大内義隆のこと)から御供えありました。大行事(=厳島神社の神官の役職名)の民部(=名前)を受け取りに派遣しました。12月30日に参りまして、御直礼(=直会の誤字?)の御衣をご所望で、大行事の民部氶を年頭のため、1月8日に岩国に参上させました。

解説

直会の御衣とは、厳島神社で行われる神衣献上祭のこと。毎年、1月1日になったその夜に、厳島神社の本殿の中にある玉殿のうちの三つに衣を奉納する。この衣は神の霊威を復活させる意味があるものです。大内は、使用済みの古い衣を「所望」したのでしょう。なぜ、大内はそんなことに興味を持つのか。

大内は文化を重んじる

ポイントは大内はとても「文化的な大名」であるということです。大内は伝統的に単に武力だけが立派な権力者の条件だとは考えていなかった。いやいや、当時の中国地方の「常識」が「権力者に必要なのは文化的な素養であり、文化を重んじるものが権力者にふさわしい」だったのでしょう。厳島神社に援助するのも、周辺地域で権力を握るための方法という意味があった。神社を援助する立派な大内こそが、この周辺地域を治めるにふさわしいと、誰もが考えていた。

大内は神衣を所望し、厳島神社は大内に渡した。
これは大内が厳島神社と深いつながりを持っているという意味になります。普通は貰えないですからね。
一方で、現在の厳島神社神主であるはずの友田は厳島神社の神衣献上祭を敵対したからといって行わせなかった。地御前神社の遷宮の儀式にも社参しなかったですしね。
やっぱり、ここでも棚守は「大内こそが厳島神社を取り仕切るにふさわしい」と遠回しに言いたいわけです。

それで、神社側は大内に年明けの1月8日に衣を送った。
前のページ…「棚守房顕覚書40 外宮遷宮
次のページ…「棚守房顕覚書42 神主家の滅亡とその後の大内氏

棚守房顕覚書(資料)の一覧

スポンサードリンク

ブログや掲示板に紹介する場合

ブログやサイトに紹介する場合(タグ)

編集