棚守房顕覚書5 平家の敗亡と二位の尼御前

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棚守房顕覚書5 平家の敗亡と二位の尼御前

平家の敗亡と二位の尼御前
一、推古天皇から27代目の安徳天皇の世。源平の両家が覇権を取り合い、平家が負けた時、二位の尼(=清盛の妻の平時子)は先帝(=安徳天皇)を抱いて、長門国の鞆の沖で海底に沈み、二位の尼は西海から流れて、在ノ浦に留まり、それでその崎に時屋を立て、阿弥陀堂を立てました。今の神泉寺(シンセンジ)の本尊は二位の尼の像です。

解説

壇ノ浦で平家は滅亡。その時、二位の尼と安徳天皇はともに入水し、死亡します。「長門国の鞆の沖」は壇ノ浦のことでしょう。安徳天皇は現在の山口県の赤間神宮に祀られています。二位の尼は流れ流れて宮島の「在ノ浦」にたどり着いたというわけです。そんなわけないけど、そういうことになっております。二位の尼は本名を「平時子」という名前で、その時子にちなんだのか、二位の尼を本尊としている神泉寺(シンセンジ)では時間を知らせる鼓を鳴らしていたと芸藩通史にはあります。そして神泉寺の通称が「時寺」。時寺が時子にちなんでの命名か、時を告げていたから時寺なのかは分からないです。普通は「時を告げていたから」だと思いますが。
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