棚守房顕覚書78 厳島及び桜尾城の状況

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棚守房顕覚書78 厳島及び桜尾城の状況

天文20年(1551年)8月20日。当島(=宮島)のことです。陶の部下の大林は、我々、島中を陶隆房の裁判にかけると言いました。桜尾については、鷲頭殿が城番であったため、惣公文(=現地の下級職員)の新里などは藤懸を経て、下向するように準備して、鷲頭殿へ使者を送って陶方から申し渡された。山口のこと…杉(=杉重矩)、内藤(=内藤興盛)は話し合い、屋形(=大内義隆)に腹を切らせるとして、桜尾城を開けて、請け取り申すべきであると、度々、申されたので、すぐに明け渡し、山口へ下向しました。

陶隆房は下克上か?

吉川の古文書によれば1550年には陶は「杉や内藤と相談し、義隆を廃し、義尊(義隆の実子)に跡目を継がせたい」と毛利に協力を求めています。後に陶隆房は大友義鎮の異母弟で大内義隆の姉の子…つまり大内義隆の甥の「大友晴英」を迎えて当主としたことを考えると大内義隆を謀反で引きづり降ろすとはいえ、「大内を潰す」という考えはなかったよう。あくまで大内の党首にふさわしくないから、大内義隆に謀反したということ。陶隆房の謀反は「下克上」の典型と見られがちですが、ちょっと違う。

宮島は交通の要衝

このページでは陶隆房が宮島・桜尾を抑えたことが書かれています。やはり「宮島は交通の要衝」という認識が当時あったと考えた方がいいでしょうね。宮島を抑えることで戦に有利になる…それが常識だった。だからこそ宮島を抑える必要があった。当然ながら「海上交通」の要衝です。
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