棚守房顕覚書3 高倉院の御参詣

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棚守房顕覚書3 高倉院の御参詣

1、高倉院当社御参詣の事
治承三年(1179年)4月3日、(高倉天皇が宮島に)御着岸されまして、二夜三日ほど神社に篭り、経を読む会や、舞楽などが執り行われまして、神主の佐伯景弘は位を上げてもらいましいて(従五位上に)、(大聖院の)座主の尊永(=尊叡)は大僧正になりまして、社家(神社を運営する人)の六人と内侍(=厳島神社の巫女)の三人は位につきました。黒木の御所(=黒木の御所は天皇の仮住まいのこと)を建てまして、そこに宿泊しました。清盛は内侍のところに宿泊しました。
瀧ノ宮で近江の三井寺の高賢大僧正が

雲ゐより落ちくる滝の白絲に契りをむすふ事そうれしき
と詠みました。

二夜三日後に(高倉天皇が)帰りの船に乗船する時に、徳大寺左大臣殿が、長浜で詠みました。
立返る名残も在の浦風に神もこころをかくる白波

このように津々浦々で歌を詠みまして、福原に帰りまして、清盛は喜んで何もいうこともありませんでした。

棚守房顕覚書と高倉院厳島御幸記

棚守房顕覚書は江戸時代に書いたもので、これらは著者の房顕が平家物語・源平盛衰記・高倉院厳島御幸記(久我通親の本)などから抜粋した記述だと思われます。ただ高倉院が厳島神社に訪れたのは高倉院厳島御幸記によれば「治承4年3月26日から29日」です。おおよそ一年のズレがある。
●このズレは当然ながら棚守房顕の記憶違いかもしれない。しかし、そういう伝承が島内にはあったのかもしれない。
●ちなみに高倉天皇が上皇になったのは翌治承4年(1180年)2月。よって棚守房顕覚書の治承三年(1179年)4月3日ではまだ高倉天皇。

高賢と公顕
高倉院厳島御幸記によれば「雲ゐより落ちくる滝の白絲に契りをむすふ事そうれしき」を歌った人物は公顕僧正とある。高賢大僧正は当て字か、持ち上げているのかもしれないが、同音の漢字で当てることは珍しくないから、深い意味はないかと思う。
佐伯景弘と高賢の地位
もう一つ、高倉院厳島御幸記によれば、佐伯景弘には「昇級」とあるが、「従五位上」とまでは書いてない。さらに「宮島の座主を阿闍梨にした」とあるが尊永(=尊叡)の名前はない。まぁ、これは尊永(=尊叡)と考えて差し支えないのではないかなとは思う。ところで阿闍梨というのは真言宗で伝法灌頂を受けたもののことです。すごい「偉い」って訳じゃありません。ひっくり返すとそれ以前は阿闍梨ではなかったということになります。高倉院厳島御幸記ではかなり低い地位だった人…つまり阿闍梨ですらなかったものが「大僧正」という高野山の階級で一番偉い人になった!と棚守房顕覚書にはあるのですね。史実は分かりません。

棚守房顕覚書は「宮島贔屓」があるのかも。

徳大寺左大臣

高倉院厳島御幸記によれば、「立返る名残も在の浦風に神もこころをかくる白波」は久我通親が高倉院に「思い残す事が多い気持ちを歌にせよ」と言われて歌った歌であって、決して徳大寺左大臣殿の歌ではないです。ちなみに徳大寺左大臣は「徳大寺実定(トクダイジサネサダ)」のこと。平安から鎌倉時代の人物で和歌に通じた文化人かつ政治家。
徳大寺左大臣と平家のつながり?
徳大寺実定は平家物語に登場します。彼は厳島神社に参詣したことが理由で清盛に取り立てられ治承元年(1177年)に大納言になった!とあるのですが、彼が厳島神社に参詣したのはその後(1179年?)とも言われていますし、厳島神社に参詣することは当時の貴族では珍しいことではなかったので、因果関係は実際にはありません。おそらく平家物語では厳島神社は「平家を隆盛させた神」として描かれているので、徳大寺実定の出世と参詣を結びつけることで、厳島神社の霊威を印象付けようとした平家物語の演出だと思います。

棚守房顕覚書もその平家物語の演出に乗っかって、「徳大寺が参詣した」→「歌を歌った」→「厳島神社が出世させる力はすごい」という意味合いがあったのではないかと。

内侍と清盛

清盛は内侍のところに泊まった、ということが書いてありますが、それが史実かは怪しい。いや、嘘とも言い切れないが。ただし清盛は内侍との間に娘を設けていて、その娘…御子姫君(冷泉局)を後白河上皇に嫁がせていますので、関係は深かったはずです。
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