棚守房顕覚書51 桜尾城陥落

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棚守房顕覚書51 桜尾城陥落

神領衆の羽仁、野坂、熊野、そのほかの家来の者共は友田興藤に二心(=謀反する心)がありまして、4月5日の夜半に城を開いて退却したので、上野介(=友田興藤)はただ一人、城に火をつけて、腹を切って焼け死にました。あくる日の4月6日に桜尾城に登り、防州の衆は見物していたところ、友田興藤の死骸と思しきものが、焼けてくすぶっていました。もとどり(=髪を頭の上でまとめた部分)の髪筋(=髪の毛)を結ぶままに有りました。右田右京、神代左馬助はこの髪の毛筋を抜き取りました。これを周防の衆やその他の人たちはそれぞれが不思議に思って、沙汰(=どう言う意味か議論すること)しました。
掃部頭広就(=友田広就)は太田(=山県郡大田村)の栗栖というただ一人のお供を連れて、直ちに落ち行き、助けようとして五日市の城へ案内されました。城から綱をおろして、それを伝って城内に入りました。栗栖は太田に帰りました。

友田興藤の死

桜尾城の友田興藤は厳島神社の元神主。そして兄弟の友田広就は厳島神社の現神主。厳島神社には神社を運営するための資金を得るものとして「神領」を持っていました。その神領には有力者がいて、彼らは友田を支持し、友田に従っていましたが、何せ旗色が悪い。後ろ盾の尼子を失って、中国地方の最有力大名のである「大内」と戦って勝てるわけもない。
神領の羽仁、野坂、熊野はさっさと友田を見限って逃げた。それで友田興藤は桜尾城に火をつけて切腹した。翌日、鎮火した桜尾城に大内の部下たちが行ってみると、焼けた死骸があるのに、髪の毛だけが焼けていない。おそらく、焼け死んだら髪の毛は焼けるものだったのでしょう。髪型を整えるのに油(鬢付け油)を使用していたから?もしれません。
それで大内の防州の人たちは奇妙に思って議論をした。この当時はこういうことは「何かの予兆」と考えるものですからね。その結論に関しては何も書いて有りません。もしかすると「焼け死んだのに、どうして髪の毛は無事なんだ?(本当は死んでいないのではないか)」って意味かも。
陰徳太平記によれば、友田興藤の父子は裏切られて、部下に殺された。部下たちは友田親子の死をもって助命を願ったが、陶隆房は聞き入れず、皆殺しにしたとある。ただし、陰徳太平記は江戸時代に成立した書物で毛利勢力の検閲を受けているため、陶を厳島合戦で打ち倒した毛利の「正当性」を説明する意味で、陶を悪く書いた可能性があることと、軍記物は基本的に誇大で創作が多いことを考えると、陰徳太平記より棚守房顕覚書の方が史実に近いと思われる。

さて、厳島神社の現神主である「友田広就」はまだ死んでいません。城から抜け出し、栗栖という部下に連れられて、五日市の城へと移動。

山城と平城

ところで、「城」っていうと、大阪城とか姫路城という立派なものを思い浮かべるものですが、あれは俗にいう「平城」です。平地に堀があり、堀の内側に大きな天守閣のある城があります。
平城が一般的になるのは信長・秀吉の時代で、この時代では城ってのは「山城」です。山の頂上に小屋を建てて、周囲を見張り、合戦をするものです。しかし、覚書によれば五日市の城に友田広就が入るのに「綱」を下ろして伝って城内に入ったというのですから…うーん、でも、まぁ、急な坂を登るために綱を下ろしたという意味でしょうね。
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