棚守房顕覚書84 吉見氏と陶氏と毛利氏

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棚守房顕覚書84 吉見氏と陶氏と毛利氏

吉見(=吉見正頼)と陶(=陶隆房=陶晴賢)の仲は、前々から良からぬ状態でした。この度、津和野城(=島根県鹿足郡津和野町後田)の吉見に防州(=山口周防)の衆が取りかかりました。すると陶よりも、毛利殿には合力(=協力)するべし!と、度々、使者を送って催促しましたが、返事はなくて、天文23年(1554年)寅年5月12日、毛利は己斐、草津の城を取り、桜尾城を取り、神領へ発向(=出発する)しました。宮島には陶の部下の深野小右兵衛が番衆(=警護)でしたが、追いかけて見失いました。当島は吉田(=毛利)の裁判となり、神領衆はことごとく吉見に在陣だったので、神領の侍・給人・女子供は是非に及ばざる有様(=善悪を問わない=罪に問わない)。

吉見は防州陣の案に相違し、西日夕?和談して、陶は帰陣しまして、それぞれが帰陣しました。在陣の時の天文23年(1554年)6月19日。富田城に石見の吉見正頼の後巻きと號し、芸州の警固2、300艘を富田に発向しました。
野間彦太郎は防州方でしたので、草津の羽仁源七を防州から城番に入れて、和談し、野間に城を明け渡したので、羽仁源七を佐東府中の町で討ち果たしました。18歳ではあるが非類な働きで名を後代に上げた。

吉見正頼と陶隆房

石見の吉見正頼は、そもそも代々の大内の家臣。大寧寺の変の時も陶に加担しせず、陶討伐に立ち上がったのですが、陶隆房に軍を向けられ、主君を守れなかった。大内隆房の死後、大内義長を迎えて形だけは「大内」を維持したために、毛利も吉見も形だけはそのままに大内に仕える形式になりました。しかし、吉見は納得いかない。吉見と陶はそもそも仲が悪かったのですね。それでついに吉見と陶・大内は「三本松城の戦い」でぶつかることになる。

天文22年(1553年)10月に吉見正頼が挙兵。
挙兵といっても実際には吉見側が防戦。陶・大内が城を攻める。
形式は大内義長を掲げている陶に大義があるのです。しかし、そんなことは誰も真っ当だとは思っておらず、亡き大内義隆の敵討ちを掲げる吉見正頼の方がモチベーションは高かった。陶・大内軍の方が人数では優っていたのですが、どうも攻めきれない。もともと攻城戦は守備に有利ではありますが。
陶は毛利元就に援軍を求めますが、毛利は無視。
そうしている間に毛利はなんと、陶に反旗を翻します。己斐・草津・桜尾・宮島を次々に奪取。宮島にいた深野小右兵衛は逃げた。
陶方の野間彦太郎は羽仁源七を使って、城を明け渡したので、羽仁源七は後に18歳で殺されたことが書いてあります。
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