棚守房顕覚書143 将軍義昭 劔、神馬料奉納

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棚守房顕覚書143 将軍義昭 劔、神馬料奉納

一、当公方様、鞆へ御下向の條、当家よりのご馳走なれば、天正4年(1576年)当社へ、御劔、御神馬料足十二貫、真木島殿のご奉公にて房顕に仰せ付けられ候條、御祈念申し、御請文は、義隆の御自筆を以って書記し下され候趣を申し上げ候。何れも御奏書は歴々と所持の條。末代までの棚守悴家の重宝となすべきものなり。これらの段書記し置くことは、老い給ふ故、前後不同となすべき事多かるべし。後見の方々の御分別に預る可きものなり。

現代語訳

足利義昭将軍様が(中央で織田信長に追われ)、鞆(トモ=広島県福山市の地域=鞆の浦)に下向(=京都から下ること)してきたので、毛利家が歓待しまして、それで天正4年(1576年)に厳島神社に来て、劔・神馬(=劔も神馬も神にお願いをするときに納めるもの)の料金である12貫を真木島殿(=足利将軍の部下で真木島昭光)が棚守房顕に仰せ付けて、(厳島神社の神に)祈念しました。その願いを書いた御請文は大内義隆(=周防の大名)の自筆で書記しました。どの書類もずっと所持しております。末代までの棚守のせがれの家の重要な宝と為すべきものです。このことを書記しておくことは、(私が…つまり棚守房顕が)老いて、前後不覚となることが多くなるからです。後見の方々の分別に預かるべきものです。

解説

読んでみると、「棚守房顕覚書138 義隆御請文」とお話が重複しています。「棚守房顕覚書138 義隆御請文」では大内義隆の自筆の書が手に入ったことが嬉しくてたまらないって感じですが、ここではそういった書類が棚守の家に伝えられていることを、「みんなに知っててほしい」って感じです。「老いてしまったから」なんてことを書いてありますが、棚守房顕覚書を書いている時に80代の老人ながら、これだけの記憶力は驚嘆を超えて信じがたいほど。ここのように多少、お話が重複していますが、それもご愛嬌ですね。
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