棚守房顕覚書10 東党と武田元繁

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棚守房顕覚書10 東党と武田元繁

ある時、東方の援助者の武田元重(武田元繁)が神領(神社の土地)に打ち入ろうと出発しました。大野の河内城はそれを聞いて逃げ帰りました。それから、己斐の要害を取り巻いて数ヶ月ほど武田は攻めたのですが、名城ゆえ陥落しませんでした。山縣民部・在田・今田の三者の土地は武田元重(武田元繁)の土地だったのですが己斐の城に出陣の間に、毛利・吉川により、山縣民部・在田を切り取られ(=奪われ)、武田元重(武田元繁)は己斐の城を差し置いて帰陣しました。その(帰陣した)ところに2、3年ほど居たのですが、毛利・吉川の両家に、武田の味方だった笠間が同調し、今田村で刑部少輔元重(=武田元繁)は討ち死にしました。その時、吉木ノ竹内備後守(吉木村吉木城主)は武田元重(武田元繁)と共に同じ場所で討ち死にしました。

解説

1508年に大内義興が京都に上洛した時に、武田元繁は同行しました。その京都で厳島神社の神主の藤原興親が死亡。死亡を知った安芸国では東西に分かれて神主の後継を争い始めました。そこで大内義興は武田元繁を帰国させて鎮圧させたのですが、なんと武田元繁が離反して東党についてしまった。そして大野の河内城を攻め落し、次は己斐の要害を攻めた…なんて書くとへーそーなんだーで済む話なんですが、これちょっとおかしい。

下克上
東西に分かれて睨みあっていたのですが、東(桜尾)西(藤掛)という二つの土地は歩いて行けるほどの距離で非常に近い。それに対して武田元繁が向かった大野河内城というのはこの桜尾から藤掛を通り過ぎて、かなり西に行った宮島口を超えたところにある大内の城です。そして次の己斐はかなり東。つまり武田元繁の狙いは厳島神社の神官どうこうではなくてこれを機に単に下克上して領地を奪ってやろうって寸法なんですね。それもこれも大内が地元を長期間離れたことに原因がある…棚守房顕はそう言いたいようです(実際そうでしょうけど)。
●東と西のどちらが友田でどちらが小方かは分からない。
●芸藩通史によると藤掛は小方加賀守の土地だったとある。

山縣民部・在田・今田

山縣民部・在田・今田は地域の名前で、武田元繁が手に入れた土地。このうち山縣民部・在田が己斐を攻めている間に毛利に奪われた。最終的には今田村で武田元繁は死んだ。この今田村での戦死の戦いを「有田中井手の戦い…永正14年(1517年10月)」といい、毛利家が中国の覇者となる分水嶺の戦いとしして「西の桶狭間」と呼ばれることもある大事件です。

ところで、この東西の争いは友田興藤が厳島神社の神主となるという結末を迎えます。ただ、この友田興藤も大内に反抗して桜尾城で死亡することになります。
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