棚守房顕覚書66 土佐一條殿の御息所来島

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棚守房顕覚書66 土佐一條殿の御息所来島

土州(=土佐)の一條殿(=一条房冬)の御息所(=妻)は伏見殿のご息女(玉姫=伏見宮邦高親王の娘)で、一条殿の御後家御(=未亡人)です。介殿(=周防介=大内晴持=一条恒持)のために御袋(=お母様)がいらっしゃり、介殿のお見舞いのために天文12年(1543年)卯年2月か5月まで宮島に在島していました。神は九善、王は十善の位とて、乱れることも多々ありますが、書き記すに及ばず。雲州での敗軍のこと、5月4日5日に風聞(=噂で聞く)でしたが5月7日に宮島を出発し、佐伯郡の小方に御宮様(=神社=大竹市小方の厳神社?)に送り、小瀬(=山口県玖珂郡小瀬?)に一両月(=5月6月の2ヶ月)ほど逗留しました。その後、山口より迎えが参られ、下向しました。介殿は雲州にて死去。介殿の舎弟の若君を宝寿寺に参らせ、宮様(=神社)と同様に宝寿寺にいさせました。

解説

第一次「月山富田城の戦い」で大内義隆の養子の大内晴持(=一条恒持)が死亡しました。一条恒持は本来は一条家の子供で、父親は一条房冬、母親は玉姫。玉姫というのが伏見宮邦高親王の娘…つまり皇女なのです。ってことは一条恒持は天皇と公家の血を引く人物。京文化大好きの大内義隆が溺愛するのはそこにあります。ちなみに一条房冬の側室の一人に大内義興の娘…つまり大内義隆の姉がいるのですね。そのつながりで養子を貰ったよう。
●ただし、陰徳太平記には一条恒持の母親は「大内義隆の姉」とする。となると、ここで宮島に来たのは「大内義隆の姉」であって玉姫ではない。その方が辻褄があう。しかし陰徳太平記は軍記物で脚色くさい。
陰徳太平記によれば、一条恒持(大内晴持)の父親は一条房家、母親は大内義隆の姉となっている。しかし、棚守房顕覚書によると、一条恒持(大内晴持)の母親は「玉姫」であり、玉姫の夫は一条一条房冬(=房冬は房家の子供)

一条房冬はすでに鬼籍に入っている
この天文12年(1543年)では一条房冬はすでに亡くなっていて、玉姫は「未亡人」になっています。養子に出した子供が心配だったのでしょう。宮島にやって来た。それは厳島神社の神の伊都岐島大明神が「戦神」であったためではないかと思います。

神は九善、王は十善の位

ところで「神は九善、王は十善の位」とあるのは何かと言いますと、仏教の世界観では輪廻を繰り返すもので、前世での行いが現世に影響すると考えていました。で、「王」になったのは前世で10の善行を行ったからであり、「神」となったのは前世で9の善行を行ったから!って理屈なんです。つまり神より王の方が偉いのです。

天皇と神なら天皇の方が偉いのですが、この時代は天皇の権威は形式だけ。「乱れ」ってのはそういう意味じゃないかなと。
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