棚守房顕覚書129 正月の席争のこと(1)

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棚守房顕覚書129 正月の席争のこと(1)

一つ、天正3年(1575年?子年は天正4年…記憶違いか)子年1月4日。座主大聖院)へ、上卿(=林親正)、祝師(=野坂正久)、大行事(=大法会を指導する僧侶=福田民部)、小行事(=大行事を補佐する僧侶=里村兼近)、大御前棚守(=野坂房顕=棚守房顕…大御前は地位の高い人のこと)、楽頭(能の演者=田中務丞)、客人御前棚守(=田親尊)、御燈(=熊野元康)の合わせて8人が旧例の習わしによって参上しました。神前の出仕の時も座配(=席順)は定められていたので、申すまでもなく、二季(=年末12月と正月)の十七日の夜と、卯月(2月)8日の船管弦の時の座敷も、これまた定まっていたのです。1月4日、座主(=大聖院)で田中務丞と大行事が上下の争いがありました。それ以後はソコソコになり(関係が疎遠になり)、9月の法会の社役を勤めず、社家それぞれと座主を證人(=証人)とし、役人佐武は10月の初めから吉田(=毛利の居城)に命令を受けて上り、棚守の力を失くさすべきとの由があり、棚守元行(=房顕の子)が10月24日に吉田に参上し、座主(大聖院のトップ)は10月26日に参上し、公事(=政務・儀式)などは田中務丞・田中左衛門太夫・上卿の3人をやらせました。佐武は20日以前に参上していて、座主と役人佐武と社家の3人と棚守元行で合体(=心を一つにする)しました。吉田奉行衆は平佐藤右衛門尉、国司右京亮、粟谷蔵丞、児玉三郎右衛門尉でした。公事(=政務・儀式)に出ないと言っても、棚守は前々より吉田(毛利)に馳走(=優遇)されているので、供僧社家は知恵をひねりました。

席順で揉める寺社関係者

社家(神社の関係者)と供僧(寺の関係者)が神事・仏事を行うにあたって話をする。それまで席順は決まっていて、問題はなかったのにこの年の1月4日に集まった時に、なぜか席順の上か下かで田中務丞と大行事が揉め始めた。それで疎遠になり法会に参加しなくなった。これだと儀式とか公務が全然行えない。全く、席順くらいで…。しかし「棚守房顕覚書124 房顕風呂を焚かせる」でも席順で大揉めしているところを見ても、席順はプライドのかかった大問題だった様子。

で、法会に参加しなくなった。

で、そんな状態を見かねた役人の佐武が、公務が行えていない現状を吉田(毛利)に訴えた。棚守の宮島での権力の根本とは棚守に「給料の分配権」があるんですね。毛利から神官・僧侶に給料が出るのですが、この給料が棚守にまず預けられ、棚守が分配する。だから宮島の神官・僧侶は棚守に頭が上がらない。本来は宝蔵の管理人に過ぎない棚守房顕厳島神社のトップになったのが追い抜かされたことが気に入らない。

宮島の寺社は毛利の管轄下にあるんです。毛利の子会社といってもいい状態です。毛利が「金を出さない!」と言ったら宮島は干上がるのです。佐武が吉田に知らせるのはそういう事情もあるんでしょう。

それがいいやら、悪いやら何ですが、それでも秩序はある。で、今更ながら棚守の権力を取り上げようと言う話が(追い抜かされた人たちから)出た。しかし、それは毛利は望んでいない。現在の秩序を壊したいわけじゃない。友田興藤が神主になって神領衆と謀反したのですから、現在の秩序を壊したらどうなるか分からない。
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