棚守房顕覚書112 和知兄弟のこと

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棚守房顕覚書112 和知兄弟のこと

一つ、当社建て替えの事。
備後の和知は当家(=毛利)に謀反する意思があり、予州(=伊予国)から開陣のころ、島中にとどめ置かれた時、南町の摂受坊は前々から宿で、かの寺でありましたが、何を恨むのかも知りませんでした。
永禄11年(1568年)12月16日。社頭(=社殿の前)に走り、入り込むと、社家の計り及ばないような状態でした。
1月24日まで閉門し、神事祭礼はありませんでした。色々と計り、この兄弟(=和知兄弟=和智誠春・湯谷元家)と被官(=部下)1人と3人、神前で討ち果たす。

毛利隆元の死と和知兄弟

永禄6年(1563年)に毛利隆元が和知兄弟と宴会して帰る途中に死亡。これを毛利元就は和知兄弟による「暗殺」と考えました。
それから5年、永禄11年(1568年)に四国の伊予が揉めていたので、毛利が進出しようとします。結局、大友が北九州に進出したことで、毛利は九州に軍を進めなくてはいけなくなり、四国からは手を引くことになるのですが……このページの話はその頃の話です。
伊予へ軍を進める小早川隆景・吉川元春ですが、彼らに和知兄弟も帯同していました。しかし、棚守が言うには、和知には謀反する意思があり、宮島の南町の摂受坊という宿坊にとどめ置かれ、永禄11年(1568年)12月16日には和知兄弟は厳島神社に「逃げ込み」、軟禁状態になりました。

厳島神社は神事ができない状態に
和知兄弟は厳島神社内で実質、軟禁され、神官たちであっても、入ることが出来ず、年末年始の一ヶ月以上、祭礼することすら出来ませんでした。年末年始は神事が多く、重要なものもあります。それが出来ないってのは「神事大好き」の棚守としては噴飯もののはず。そこまでは書いていませんが。

厳島神社修造の要因は「穢れ」?

それで、ついに和知兄弟とその部下が殺されてしまいます。つまり、社殿が血に染まった…血で穢れたのです。このあと、社殿が修造されるのですね。その要因が、和知兄弟を殺して、社殿が穢れたから、と言うのが定説になっているんですが、棚守房顕の記述を読む限りは、「穢れたこと」が大きな問題だったとは思えないんですよね。

それに「棚守房顕覚書92 元就下山」でもそうなんですが、棚守自身が「血で穢れる」ことを嫌がっていないんですよね。今回の書き方も、神事が出来なかったことを第一に挙げていて、血で穢れたことについては書いていない。
銘刀荒波の一件と絡めて考えると、「神慮に叶わず」な行動を取り続けた毛利が祟りを鎮めるために修造したと考えた方が自然だと私は思うのですよ。
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