棚守房顕覚書9 神主興親と国元の状況

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棚守房顕覚書9 神主興親と国元の状況

一、神主の藤原親実から四郎興親(藤原興親)までの14代が続きました。この藤原興親は今出川殿(=足利義稙【義尹】=室町10代将軍)が京に帰るときにお供して、永正5年(1508年)辰の年二月に宮島から船出しました。その年の十二月八日に京都で藤原興親が病死しまして、兵庫福厳寺に遺体はありました。こうして神主は断絶したとき、小方加賀守と友田上野介は京都に居ました。

東西両党の対立
国元では東西に分かれて、東方は五日市の宍戸治部少輔を筆頭に桜尾に立てこもりました。西方は新里若狭守を筆頭として藤懸に立て籠もりました。数年も取り合いをしました。

足利義稙と大内義興

足利義稙は一度は将軍につくものの、その後、将軍職を追われて(明応の政変)、越中国放生津→越前国の朝倉貞景の元、と移動した後、京都に上洛しようとして失敗、河内国に逃げた。そこで大内義興の庇護を求めて周防国(現在の山口県)へと逃げます。その後、永正の錯乱で中央が混乱状態になると1508年に足利義稙は大内義興とともに上洛し、将軍に復帰します。
そのとき、厳島神社の神主だった藤原興親も同行し京都に行って、そこで死んでしまいました。小方加賀守と友田上野介はまだ京都でしたが、部下たちは東西に分かれて争いを始めます。
棚守房顕覚書によると小方加賀守と友田上野介は両者ともに、藤原興親の「甥」と書いてあります。

厳島神社神主の権力
その後のお話は次のページにするとして、問題は厳島神社の神官ってのはどうやら凄い美味しい仕事であるという認識だったということです。神主が断絶して、それを取り合う。立てこもって取り合うってことは、抗争状態です。
棚守房顕覚書6 鎌倉幕府の神主任命」でも書きましたが、厳島神社の神主はその土地の守護と同格か同一視されるような存在だったよう。単なる神社の神主ではなく、強い権力を持っていたと考えていいでしょう。
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