棚守房顕覚書73 毛利氏の信仰・広元興元の参詣

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棚守房顕覚書73 毛利氏の信仰・広元興元の参詣

一、毛利殿当社御信心のことは、
前の代の毛利弘元(=元就の父親=1466〜1506)より、稲光の太刀の奉納がありました。神馬12匹を引かれたこともありました。
毛利興元(=元就の兄=1492〜1516)の参詣は4月18日のことでした。神物などは書記に及ばず。宿は岡の児玉七郎左衛門尉のところです。国衆も取り分け、当社を信心していました。
尼子へ出張の立願(=神に願いをかけること)して、棚守房顕を備後の中山へ呼び寄せまして、吉田の小山と西浦(=高田郡吉田町の地名)は神領として厳島に寄進しました。それで年間の行事を1町で立つように神事を取り行うようにと仰られたのですが、1町では神事は成り立ちませんでした。

突然、毛利広元と毛利興元の記述

お話は飛んでしまいます。
棚守房顕覚書は順番に並んでおらず、棚守の徒然なるままに書いているので、気にしてはいけません。

突然、毛利元就の父親である毛利弘元と、その息子の毛利興元が登場。毛利興元は父親(弘元)が死んだことで跡を継ぐのですが、早くになくなり、毛利興元の子供の「幸松丸」が跡を継ぎます。しかし、まだ元服をしていないどころか、この時2歳の幼い子供でしたから、実務なんて出来るわけもなく、そこで、後見人となったのが毛利元就です。毛利元就は毛利弘元の子で、毛利興元の弟。よって幸松丸から見れば叔父にあたります。幸松丸は9歳で死亡。その跡を継いだというか、ほとんど乗っ取ったように毛利の当主になったのが毛利元就です。

棚守房顕は毛利元就の御師

棚守房顕はすでに毛利の御師となっています。

この時点では大内の庇護を受けていますが、大内義隆が死亡し、毛利が安芸の国の権力者になると毛利の庇護を受けています。筆者としては「毛利贔屓」なんですよね。

毛利興元と棚守

さて毛利興元は25歳で死んでしまうまで、大内VS尼子の戦乱と備後での国人対立の調停を行うなど、活発というかストレスの多い人生だったようです。その合戦の前に武将たちは神仏に祈って戦勝を祈願するものでした。備後の中山は現在の広島県福山市草戸町中山。ここに棚守を呼び出して、土地を神領として1町…つまり1ヘクタールの米で神事を行えと言ったのですが、1ヘクタールで取れる米は10石程度、「棚守房顕覚書57 義隆金山城に移る、房顕ら対面する」によると厳島神社の年中の神事は3850石かかるとあるので、ま、10石じゃ焼け石に水ですわな。

どうも、棚守は暗に毛利興元を愚かであると言いたげ。その感情の根本にあるのが毛利元就への感謝というか、元就あっても厳島であるという感覚なんじゃないでしょうか。

ついでに棚守はどうも「神事を行えるかどうか?」が権力者の条件であると考えているようなんですよね。それが出来なければ権力者として相応しくないと。つまり大内義隆・毛利元就が権力者としてふさわしいという理屈です。
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