棚守房顕覚書69 一条房通社参

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棚守房顕覚書69 一条房通社参

御本所(=本家)の一条殿(=一条房通)は京都から土州(土佐)へ下向しました。当社(=厳島神社)についでではありますが、社参するべきと参詣しました。岡(=塔ノ岡)の長兵部丞のところに宿をとりました。天文12年(1543年)卯年の月迫(12月の末ごろ)に渡海しまして、天文13年(1544年)辰年の年越しは当島(=宮島)に居ました。明けて2月の末まで逗留しました。山口へ下向しなかったので、大内義隆から使者として右田左馬介が渡海して、色々と進上物がありました。棚守房顕は、土州一條殿御宮様、若君が当島(=宮島)に宿をとって居ましたので、別にして再々、御意を得て(=お目にかかって)、御鞠の手合わせなどにも参加しました。

解説

このページの「時期」は現代語訳上では「天文12年(1543年)卯年」となって居ますが、原文では「卯の年」としてありませんので、12年ずれている可能性もありますが…多分あっています。

一条房通
どうも天文12年(1543年)に一条本家の人がやってきた。おそらく一条房通だろうと思われます。一条房通は永正6年(1509年)から弘治2年(1556年12月1日)までの人物。土佐一条家の一条房家が父親ですが、一条房冬が長男で土佐一条家の跡を継いだので、次男だった一条房通は大叔父の一条冬良の娘と結婚して婿養子となりました。それで「一条本家」。
一条房冬は天文10年(1541年)に死亡し、その子供の一条房基が土佐一条家を継いだものの、この時19歳か20歳ほど、実力不足なので一条房通が政務を執っていた。そのための「京都から土佐へ」行く途中の宮島です。

大内と一条

一条房通は宮島に来島した1543年から1544年時点で、既に左大臣。朝廷のほぼ最高位にあります。京都文化大好きな大内としては山口に来て欲しいのですが、一条房通はあくまで土佐に行く途中に宮島に立ち寄っただけですから、山口に行かないのはしょうがないですね。それで大内は部下を宮島に派遣して進上物を贈った。大内は律儀ですな。

さて棚守は「土州一條殿御宮様、若君」が宮島で宿を取って居たので…とありますが、この「宮様」は、棚守房顕覚書66 土佐一條殿の御息所来島で登場する一条房冬の未亡人である「伏見殿のご息女(玉姫=伏見宮邦高親王の娘)」だろうと思います。
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