棚守房顕覚書31 豊州衆の帰国

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棚守房顕覚書31 豊州衆の帰国

豊州の国元に不慮の趣があり、豊後衆は帰陣しました。国衆はそれぞれの国へと入りました。小原右並(=小原鑑元=大友氏の家臣)を頭崎(=東広島市の頭崎城?)の船本にて討ち果たそうとしたのですが、豊州の船着場から逃げ去り、防州の府中の真尾に在宅していました。同じく、志賀の大蔵左衛門尉は小原と同じように在郷していたが、どういう儀があってか、刺し違えて死去しました。そのほか、いろいろなことがありました。

解説

不慮の趣
豊州の国で何かしらの問題が発生したことで豊後衆は帰国しました。さしあたって戦争はありそうにありませんしね。何かしらの問題とはここでは語られていないのですが、「佐伯惟治の反乱(1527年)」ではないか?と思われます。佐伯惟治は、大友義鑑の部下でしたが、謀反の噂が立って、大友に攻められ、最後は殺される人物。

大内は広範囲(豊前・筑紫・周防・長門・安芸・石見)を統治する家です。豊後を統治する大友とは隣接していて、のちには戦うことになりますが、ここでは関係は良好です。小原右並が防州の府中に居たということは大内が殺そうとした訳ではないでしょう(大内の地元の周防府中に在宅しているわけですから)。小原右並を殺そうとしていたのは、佐伯かもしれませんし、また別の勢力かもしれません。

志賀の大蔵左衛門尉
この人物に関しては不明。しかし、棚守がこれを書き記した以上は、(彼にとって)何かしらの意味があったのではないかと思います。
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