棚守房顕覚書18 大内氏興藤を討たんとす

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棚守房顕覚書18 大内氏興藤を討たんとす

その後、防州から陶尾張守(=陶興房)、弘中下野守(=弘中興兼)が大野(=廿日市大野町)の門山に至り、大永3年(1523年)未の年の8月から陣を張っていました。
大永3年(1523年)8月18日、防州の警固船の大将の弘中越後守が宮島に押し寄せると、廿日市の当島の衆、廿日市の番衆たちは、宮島を開け渡し、退きました。宮島の島内の供僧、社家衆、町人以下のものは島にいました。

解説

東西に分かれていたのですが、宮島は早々と「西方」につきました。棚守房顕覚書の中では西は友田です。その友田が大内義興を無視して桜尾城で「私が神主だ!」と自称してしまいました。そして戦争を仕掛けるのですが、大内が黙っているわけがありません。陶興房を派遣して沈静化をはかります。大名ってのは大変ですね。

しかし、大聖院座主など西方についた人たちは気が気じゃない。別に争いを望んでいるわけじゃないのですが、揉め事が拡大するのを放置していた節はあります。西方に着いたのもしかり、神社の責任者の上卿が能美島に逃げたってこともありましたからね。ま、社家や坊主に何ができるのか?ってこともありますが。

こうして西方の勢力は宮島から駆逐されました。
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