棚守房顕覚書138 義隆御請文

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棚守房顕覚書138 義隆御請文

一つ、金山の佐東御陣へ参上の時、天下より御寄進の御剣の時の御請文を、かくの如く調べ申す可きの由にて、義隆御自筆を以ってあそばされ、房顕に直ちに下さる。有難き次第なり。棚守家書目録に相副え、末代までの悴家の重宝故、左近太夫に遣わす置くなり。

佐東銀山城に棚守房顕が参上しまして、天下…つまり室町幕府の足利将軍から厳島神社に寄進された剣の御請文があった。当時は神社に何かしらを納めて…今回は剣…その見返りとして何かしらの「ご利益」を得ようとします。その時に、こんな願い事をしているんですよ!という文章を神社に納めます。それが「御請文」です。その引き渡し役をするのが「御師(オシ・オンシ)」です。棚守は御師として多くの武将と関わりを持っていました。

その御請文を「調べ申す可き(調整するべき=修正するべき)」として大内義隆が筆をとった。そして直したものを棚守に与えた。それを棚守が「ありがたき」として、棚守の家の目録に加えて「左近太夫」…棚守元行…つまり棚守房顕の子供に「お宝」として与えたというお話です。

大内義隆の文書を「ありがたい」と考えるということは、大内義隆をかなり尊敬していたか(芸能人のサインをありがたがる感覚)、大内義隆は書がうまいという評判があったか…前者のような気がします。

私としては、大内義隆は宮島の大鳥居を立てていますし、棚守が厳島神社の給料を各人に渡す権限を握るきっかけとなった人物でもあり、棚守・宮島にとっての尊敬すべき人物だったのではないか?と思います。
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