棚守房顕覚書2 平清盛の崇敬

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棚守房顕覚書2 平清盛の崇敬

かつて清盛入道殿(=平清盛)が厳島神社に参詣した時、白金を蛭巻き(=刀を持つところに金属を蛭のように巻いたもの)の小長刀を(厳島神社の神が)与え、この劔(ツルギ)を持って、一天四海(=全ての世界)を自分のもののように治めなさい…ただし悪行がある場合は、子孫までは守り難いと言って、神は上らせました。長期間、清盛は福原から月詣があり、音戸の瀬戸の砌(ミギリ)を掘りました。

解説

厳島神社といえば清盛。
という事でそれに関する関係も書いています。一つは清盛に短刀を渡し、「それがこの世界を統べる根拠」として、清盛の統治権を渡したという事。悪行があれば子孫までは統治権がありませんよ!という条件付きではありますが、この一文を読む限りは「統治権を決めるのは厳島神社の神」という認識があったということになります。
●刀を厳島の神に授けられる物語は平家物語巻二にも記述がある。厳島神社の修造が終わって、厳島に参って寝ていると、刀を授けられる夢を見る。
●平家物語巻五ではある日、消えてしまったとある。その理由は平家が勅命に背いたからとも。

福原の月詣

清盛は福原(現在の神戸)に都を移しました。その福原から厳島神社に月詣・・・つまり毎月、通っていた!というのです。さらに、月詣をするために、音戸の瀬戸を切り開いたというわけです。これは史実ではありませんが、清盛の非常にあつい崇敬と、清盛が音戸の瀬戸を開くという大事業をなしたという事を書いて、結果的に厳島の価値を上げていこうという意図が見えなくもないなと。
●清盛は福原に厳島神社を勧請して、そこで月詣したのかもしれない。というか多分、そう。
●音戸の瀬戸は清盛が作った、ということになっていて塚もある。かつて繋がっていたものを清盛が開いて船が通れるようにしたというのだが、地形的に「ありえない」とされている。自然な地形であって人工的なものではない。
●愚管抄によると、清盛は「船を作って、月詣を福原から行ったら60日後に(安徳天皇が)懐妊し、天皇の外祖(=天皇の祖父)となった」と書いてある。つまり厳島神社は平家の繁栄を強く後押しした存在。
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