棚守房顕覚書30 大内氏九州衆の後援を得て安芸の諸城を攻略する

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棚守房顕覚書30 大内氏九州衆の後援を得て安芸の諸城を攻略する

一、(大内氏には)豊後からの援助があり、臼杵、小原、両田原、志賀、佐伯、一万田、戸次、斎藤などの筑後衆、34カ国の衆を一万ばかり陸路を上ってきました。あるいは船で上りました。
大永5年(1525年)12月27、28日に島に到着しました。明くる年の大永6年(1526年)には佐東の府中城(武田氏)へ取り掛かり、石道新城(=岩道新庄)、佐東よりの城は(大内軍の進軍を)聞いて逃げて城を明け渡しました。
防州衆は府中の鹿籠(コゴモリ=現在の安芸郡府中町鹿籠)に陣を取りました。この要害は安芸国においては名城とは言いますが、城から豊州衆の様態を見て、和談して、佐東の内藤玄蕃助、渋谷の両人に腹を切らせて和談しました。

解説

大内は城を攻略して落として平定します。そのためにわざわざ豊後・筑後などの国から1万の兵力を投入。さすが中国・九州…豊国・筑紫・周防・長門・安芸・石見を統べる大名です。一万というのは誇張かもしれませんが、これだけ投入されると勝てっこない。

大内はこの大軍を府中町の鹿籠に陣を張って駐留するのですが、九州から徒歩で来たという九州の兵士は、疲労と冬の寒さと知らぬ土地のストレスでどうにも体調がよろしくない。あと、当時の「兵士」というのは農家から徴収されていたので、長引かせて、農作業に支障をきたすと不満が高まります。帰国の期間を考えると、長居はできない。それに戦費も嵩む。一定の成果も見られたので次のページでは帰国することになります。
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