棚守房顕覚書90 戦後余話児玉新五郎のこと

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棚守房顕覚書90 戦後余話児玉新五郎のこと

児玉新五郎は小舟を押して巡り、(陶軍の)落人を見て探していたところ、年でいうと12、13と15、16くらいの落人の若衆を7、8人助けて、船に乗せたところ、叔父の児玉周防守(=児玉就方)が見つけて、「いかに、新五郎、人を助けだてして、男身を失うな」と言われて、その助けた若衆の年齢が上のものを討つべきとなって、弘中越中守(=弘中正長)の被官の池内丹後守の行き合う兄弟で、兄は16歳、弟は15歳ですが、兄は我を討ちたまえ、弟を助けたまえと言い、弟は我を討ちたまえ、兄を助けたまえと言いまして、児玉新太郎は案じ患いましたが、年上の兄を討ちました。是非に及ばない哀れなことです。これら兄弟は棚守房顕が先年、山口で約束をしたものたちであり、棚守の子供は佐東の松尾城にいて、この池内の子を他人法師?と共に子供が帰島する際に、連れて渡海しました。その後、2ヶ月あって5、6人は下りました。
三浦越中(=三浦房清)のこと。叔父の越中深野了圓を呼び、連れて上りました。天野中務少輔隆重(=天野隆重)が引き取り、棚守房顕に賜りました。今も在島しており、社家の一分です。

児玉新五郎と池内兄弟

児玉新五郎という毛利方の児玉就方の甥っ子が、陶の落人を探していて、若いのを助けた。それが陶方の弘中正長の部下の池内なる人物の息子の兄弟。しかし、児玉就方は助けるなという。男が廃るぞ!と。そこで児玉新五郎は彼らのうち、年長者である兄を殺そうとした。その兄弟がかばい合いがあったが、結局、兄を殺した。

戦争の厳しさ?
戦争の厳しさであるとするんですが、だったら全員殺すのが筋でしょう。全員を殺すのではなく、また、助けるのでもなく、一人は殺して、「勝利者の面目」を立てれば、敗者とて皆殺しというわけでもない…と考えると、戦争の厳しさってもそうでもないような。16歳15歳は若いとはいえ、戦争とは無縁とは言えないでしょう。十分な戦力になる。だったら殺されても不思議はないんじゃないかと。12、3歳は戦争には使えないでしょうけども。

美少年が死んだ!

私は棚守房顕の言いたいことはそこじゃないような気がします。どうも棚守房顕はショタっぽいんですよね。美少年大好きなんですよ。美少年の陶隆房が父親と別れてメソメソ泣いているのを見て「アワレー」と言っているところとか、地御前神社に美少年の大内晴持が来てるのを書いて見たり。ここでの棚守の考えは、「貴重なピチピチの美少年が死んじゃった!」ってことなんじゃないかとちょっと疑ってます。それにどうも棚守は池内兄弟を見知っていた様子ですしね。死んだ兄も美少年だったんじゃないでしょうか。
もちろん「美少年が戦争で死んだ!」って意味では戦争の悲哀を表しているんですけど。
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