棚守房顕覚書13 尼子経久鏡山攻略

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棚守房顕覚書13 尼子経久鏡山攻略

一、尼子伊予守経久(尼子経久)は雲州・因幡・伯耆を我儘に切り取り平らげて、当国(=安芸国)の西条(=東広島市西条)に至り、鏡ノ城を切り取り、帰陣しました。この城で、市地国松をはじめとして、その他の宗徒が千人ばかり討ち死にし、頭場(?)を築きました(?)。

鏡山攻略

大永3年(1523年)。山陰の雄、尼子経久がちょっかいを出してきました。大内の鏡山城を攻めたのは尼子に命じられた「毛利」です。毛利の頭首は「毛利幸松丸」という少年でした。鏡山城攻略の時はまだ9歳。当然ながら実権は別の人が握っている。その実権を握っている人物が毛利元就。一方で鏡山城主は蔵田房信、そして副将はその叔父の蔵田直信。毛利元就は蔵田直信に家督を継がせる密約を結び、寝返らせ、蔵田直信の手引きで、尼子側の兵士が城内に入り落城。
戦後は、裏切った蔵田直信を尼子経久が処刑させた。つまり毛利は尼子に面子を完全に潰された。これによって毛利は尼子に不信を抱くことになります。

解説

厳島神社の神主をめぐる東西の対立は広範囲を巻き込んだ大混乱に陥りました。東西はそもそも決して敵同士ではありません。どちらも「大内」の部下です。しかし、この混乱を尼子が見逃すわけもありません。当時、尼子の部下だった毛利は策略を用いて鏡山城を落城させます。その結果、厳島神社を信仰する宗徒が1000人ばかり死んでしまいます。
棚守房顕にはコレがどう見えたでしょうか。
神官の跡目争いが(直接の原因ではないとはいえ)ここまで拡大したのです。
複雑な思いがあったに違いありません。
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