棚守房顕覚書156 管弦当役及び会所と会所坊主

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棚守房顕覚書156 管弦当役及び会所と会所坊主

一、吉田よりの6月17日夜の管絃当役の事は、戌年(天文19年・1550年)より当年(天正8年・1580年)に至る三十一ケ年なり。
会所の事は、寅年(永禄9年・1566年?)に建立あり、会所の坊主は野村自行五六年、それ以後は山崎一葉五六年、その後、奥州会津の弘音、それ以後は吉田に参る。その後、加運、宗勢、宗軒なども二三ヵ月逗留なり、当時は護摩の隣興逗留す。

現代語訳

吉田(毛利の居城がある土地)から派遣された人物が6月17日の管絃祭の役員をしたのは戌年(天文19年・1550年)より当年(天正8年・1580年)に至る31年間でした。

会所の事です(会所はグループでは無く、実際の建物)。寅年に建立されまして、会所の坊主は野村自行が5年か6年、山崎一葉が5年か6年、奥州会津の弘音、それ以後は吉田からまいられました。その後は、加運、宗勢、宗軒が二、三ヵ月逗留しました。当時は護摩の儀式を行って逗留しました。

解説

最初の部分は管絃祭のイベントの責任者が吉田から来ていたというお話。管絃祭に毛利が31年間も関わったということです。1550年というのは厳島合戦(1555年)より前ですから、その頃には毛利は宮島と強い関係を持っていたということです。

その次は会所のお話。どうも「会所」と呼ばれる施設があったらしいです。ここでの会所は何かの目的で建てられた小屋の事。ここでいう会所は江戸時代にはなくなっていて、具体的にどういうものかよく分かりません。連歌の関係かなとも思います。当時は連歌師は必ずしもではありますが、お坊さんということが多かったので。しかし「護摩の儀式」をしたともあるので、連歌は関係ないか。
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