棚守房顕覚書91 龍ケ窟の決戦とその後・弘中父子及び僧了善の自刃

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棚守房顕覚書91 龍ケ窟の決戦とその後

弘中父子及び僧了善の自刃
一つ、弘中三河守隆兼(=弘中隆兼=弘中隆包)とその子息の源太郎は人数2、300人で龍の岩窟に取り上り、10月1日から3日まで山中で(毛利に)取り巻かれていましたが、弘中備中守、同じく弘中中兵衛、綿長加賀守たちと、衆徒の者の人数を細めようと、12、3人を助けるべきと言いましたら、真(=本気だと)と心得て、彼らを引き取りました。そうして残った者たちが一人一人と落ちていくと、最後には弘中父子だけになりました。
摂津国住吉の了善という出家した者がおりまして、弘中三州(=三州は三河のこと三河守と同じ意味)から特別に目をかけられていました。それで弘中父子と同じ場所で、腹を切るという前代未聞のことがありました。

弘中隆兼の頭を浅沼洞(=阿曽沼党=阿曽沼という氏族の集団のこと)が取り、息子の源太郎の首を熊谷洞(=熊谷党)が取りました。陶・弘中が討たれましてので、(毛利軍は)山中を下るべきなのですが、江田安芸新五郎が討たれていないので、このものを討とうとして、10月3日の夜も元就は一夜の陣を据えていました。

厳島合戦もお終い

大内軍の実質のボスの陶隆房(=陶晴賢)はすでに死亡。大内の有力家臣の弘中隆兼とその息子の源太郎がここで死亡。弘中が死ぬ前にすでに大勢は決していたのですが、それでも最後まで抵抗した弘中を毛利はのちの時代にも評価した。弘中の子孫は決して迫害されてはいません。おそらく毛利は「忠義」を重んじたのでしょう。毛利は敵ですら、その忠義を評価するのですから、味方ならば尚の事……その姿勢を示すことで、毛利は自分の組織を固めようとしたのでしょうね。
ま、謀略の鬼、毛利元就が?って感じがしますが、自分が裏切りと謀略の鬼だからこそ、裏切りを予防するためには必要だと考えたのでしょうね。

源太郎の死

ここでも弘中隆兼の息子の「源太郎」が死んだことを書いています。まー書いちゃいけないってわけじゃないのだけど、元服していないハイティーンの少年がどうしても棚守房顕は気になってしょうがないでしょうね。気のせいかもしれないけども。
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