棚守房顕覚書118 元祐経所に死去のこと

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棚守房顕覚書118 元祐経所に死去のこと

一つ、元祐が東ノ坊(=西方院)の経所において死去のこと。
元亀3年(1572年)申歳5月27日夜。賢知という出家(=僧侶)のものが子細どもありまして、突き殺しました。
すると、かの元祐を我が寺家(=ここでは西方院)に取り入り、それ以後、迎え渡しました。
そうしてまず、役人が五日市の政所から厳島の旧例のおもむきとは違うのは是非に及ばざる(=善悪の議論にならない)次第です。先年(=これまで)は往来の者たちは、社頭(神社)にて死去したものがあるときは、板を切りはずし、塩に入れて流す由を書き立て、進言しました。その事情を棚守房顕に持ち上げなさいと下して(命じて)、田右兵衛は兄弟なので、派遣することになり、これらの段(経緯)は先の政所の申すように余儀なし(=どうしようもない)でした。我らを当島で堪忍させらるべきも、なんともなりとも、棚守房顕の儘(=思い通りになること)であるべきの由です。棚守は山口の御請文に政所から言上(申し述べること)があり、先例の趣に別儀(=考慮するべき特別のこと)はない。さりながら、元祐のことは、肩で息をしている時に寺家(=西方院)へ入り、養生を加う(=治療)べき、覚悟でした。しばらくして去り終わり(=死亡)した由を言上してそれ以後は(役所から)お尋ねなし。

解説

元祐なる人物が死んだお話です。
賢知というお坊さんが色々とあって元祐を突いた。元祐は逃げて、大聖院の近くの西方院に逃げ込んだか持ち込まれた。そこで死んで、西方院はその遺体を引き渡した。
で、事件が発覚して、五日市から役人がやってきた。これまでならば、社頭…社殿の前で人が死んだ場合は、その板を切り外して、塩で清めるものだと役人に進言した。で、おそらくは元祐の兄弟の田右兵衛がやってきて遺体の処理をすることになったが、どうしようも出来なかった。
で、棚守りが「元祐は西方院に行ったときは生きていて、治療したけど死んだ」と進言したら、役所からはなんともなくなったと。

社殿で人が死んだら、其の穢れが発生する。其の穢れを除去するために、厳島神社の板を切り、塩で清めるものだったわけです。となると、和知兄弟が死んだことで社殿が穢れたから、厳島神社を毛利が立て替えたという話は理屈が通じない。人が死んでも板を切って清めればいいのですからね。私としてはやはり厳島神社を毛利が修造したのは「穢れ」ではなく、厳島大明神の祟りを鎮めるためだったと考えるようが自然に思いますね。
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