棚守房顕覚書131 神子内侍のこと

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棚守房顕覚書131 神子内侍のこと

一つ、神子内侍のことは、河田周防守という人がいたのですが、当家(=毛利)の御代となり、卯の年の10月以来(=永禄10年…1567年10月?)、棚守房顕におおせつけらるるところとなりました。子々孫々に至るまで知行(=給料の支給)するべきものです。神前にて一夜で代わる代わるし、50人は昼を守る。そのほか、神主殿の御宿となるので、宮島の地頭であるならば、昔、家には飯床などがありました。神主殿は1月4日の参詣の時は松囃子を東西から馳走します。そのほか念仏風流と年々、入ります。

解説

神子内侍…つまり普通の神社で言うところの巫女さんは、河田周防守なる人物の時代から毛利の時代に移って、「卯の年10月」から、棚守房顕が管理することになった。
卯の年10月が本当に永禄10年かは怪しいですね。

まぁそれはともかくとして。

その管理するための給料を棚守がつかむことになり、その給料を子々孫々まで棚守がもらうと言うのです。棚守房顕が、なら分かるのですが、その子孫にまで、と言うのはどうなんでしょうか。

で、夜は代わる代わる。昼は50人で神社にいる。この「50」と言う数字は棚守房顕覚書68 広橋兼秀社参でも登場します。この時は広橋兼秀が「棚守の宿で50個の匂い袋を持たせた」とあるので、巫女さんは当時、50人いたってことです。なぜ50人なんでしょうか。
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