棚守房顕覚書85 折敷畑の戦

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棚守房顕覚書85 折敷畑の戦

その後、天文23年(1554年)6月5日。防州の警固船が100ばかり当島(=宮島)に押しかけて来たのですが、城などを構えていたので、島へも上がらず、陸地からは山代衆(=現山口県岩国市本郷町および錦町の人たち=一揆衆)とそのほかの防州衆が2、3000人。平良(=広島県廿日市市平良=現在の速谷神社)や宮内(廿日市市宮内)へ討ち入ると見えましたが、陶の部下の宮川甲斐守(=宮川房長)は馬がはやり(=勇みたって)、崖に落ちて死にました。この人物は在京中の船岡の合戦(=船岡山合戦=大内義興が関わった合戦)以来、度々、名を高めた人物です。
両手の弓かけのうちの右手の弓かけを外すと、それを見た人は、指の硬さに、「かくの如し」と沙汰し褒めました。

あらすじ

三本松城の戦いで陶と吉見が戦っている時に、その隙をついて毛利が桜尾城近辺を奪取。毛利と吉見が内通していたのではないか?とも言われますが、確たる証拠はありません(ただし毛利ならやりかねないという気持ちはとてもよく分かるので否定もしきれない)。

毛利VS陶

さて、宮島を奪取した毛利勢の元へ、陶・大内の防州衆がやってきますが、城を築いていたので帰って行きました。宮尾城(宮ノ尾城=要害山)のことでしょうね。ちなみに陰徳太平記では厳島合戦の時に急に宮尾城を築城したことになっていますが、あれは脚色ですね。どうも毛利を大きく見せようとしています。

折敷畑の戦い

宮島へは船じゃないと行けない。陸には防州と山代衆が行き、ここでぶつかります。これが「折敷畑の戦い」です。しかし、陶の部下の宮川房長は死亡。
ウィキペディアで調べると、折敷畑の戦いは壮絶な駆け引きで、最後は「ホタルが飛んだのを見た毛利元就が伏兵を見破った」なんて書いてあるんですが、嘘でしょ。実際のところは、「敵将(宮川房長)が馬が猛って落馬して死亡」という棚守房顕の記述の方が「現実」じゃないかな。

弓かけ
弓をひく時に手には皮で作った手袋をします。じゃないと指が傷つくからです。それでも硬い弓をひくわけですから、歴戦の強者は指が硬くなる。つまり、宮川房長は歴戦の強者だった。ってのが最後の話じゃないかと思います。
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