棚守房顕覚書64 義隆出雲に軍を進める

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棚守房顕覚書64 義隆出雲に軍を進める

大内義隆は天文11年(1542年)寅年の6月28日、三入(安佐北区三入)から河本(=廿日市市津田河本)に至り、赤穴(=島根県飯石郡飯南町上赤名)へ先勢(=軍の先鋒)は取りかかりました。
7月の初めの頃、赤名の城で、熊谷平三、陶の部下の粟屋内蔵助、そのほかの宗徒の衆が討ち死にしました。しかし、赤名を退治しまして、小笠原は降伏しました。その他に、石州(=石見)を手に入れました。

10月20日。雲州の馬津(?)より陣を経羅木(椋羅木の山陣?)へと出陣しました。天文12年(1543年)卯年の年を越しました。
天文12年(1543年)2月28日。星坂(=?)へ進み、陣を寄せました。富田の月山城(=島根県安来市広瀬町富田)の間5、6町で何度か合戦がありました。

解説

厳島神社の神主騒動が完全に終わると、大内は山陰(出雲)へと軍を進めます。しかし、混乱が拡大したのは尼子が友田興藤を援助したからです。尼子を放置していれば、いずれまた揉め事になるでしょう。尼子はどうにかしないといけない。この潰し合いの隙に毛利が台頭するんですが、それは歴史の結末を知っている我々の勝手な考えです。
大内義隆はこの頃はまだ「武断派」というか、大名らしいところがあったのですね。三入から廿日市を通って島根県に入り、城を落としていきます。仲間に犠牲はありましたが、順調に石見銀山のある石州をゲット。その後も軍を進めていきます。

この後で、大内義隆が合戦嫌いになる大事件が起きることになります。
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