棚守房顕覚書38 弘中越中守社参

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棚守房顕覚書38 弘中越中守社参

弘中越中守社参
弘中越中守正長は天文9年(1540年)10月16日、神社に供える御代官として参詣しました。山口の氷上の真如坊は御祈念のために7日間、宮島に在島しました。南町(=宮島町南町)の摂受坊の宿坊(=坊さんが泊まる宿)でした。再々、出て、参会を申しました。これらの段、その隠れない條、棚守の気遣いは是非に及ばず(意味がない)。

神鹿の死すること多し
天文9年(1540年)9月から、鹿が死ぬことが限りなかった。御鬮(ミクジ=くじ)を行ったところ、神主(=友田広就)の身上であるとした。

解説

大内義隆の代わりに弘中正長が宮島にやってきました。一緒に大内家の氏寺の興隆寺(天台宗)の真如坊というお坊さんが7日間宮島にいて、南町の摂受坊の宿坊に泊まりました。摂受坊も天台宗じゃないかと思います。真如坊は祈念…つまりお祈りをする。これは大内の願いが叶うようにというお祈りです。

棚守の役割
で、「真如坊」が「参会を申した」。
この散会は「芸者遊び」とか「遊女と遊ぶ」とかそういうことじゃないかと思います。山口県からはるばる祈念に来たお坊さんが「芸者遊び」です。そんな破戒坊主ぶりを全然、隠す様子がなかった。棚守は女を世話していたのですが、そんな「棚守の気遣いは是非に及ばす」となった。

どうも棚守は女を世話することで、毛利や陶や大内の信頼を得たのではないかと思いますね。

友田兄弟の破滅の予兆

さて、9月頃から宮島の鹿がバタバタと死んだ。これはどうしたことかと、クジを引いて神慮をはかったら「神主の身の上に何かある前兆だよ」となった。
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