棚守房顕覚書153 僧坊処置のこと(3)

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棚守房顕覚書153 僧坊処置のこと(3)

辰の年二月二日に、当座主の児にて御渡海候。長屋下野守の孫を同道候て、房顕中江に籠り居り候処へ御出なされ候。同二月十五日。千部経を仰せつけられ候條、房顕の宿所にて、児の御出立にて出仕し候。その節の導師は吉田満願寺の真勢僧都にて候ひき、それ以後、真勢髪をそりたまひ、良勢と申すなり。

現代語訳

辰の年(永禄11年=1568年)2月2日に当座主の子供の12、3歳で海を渡りました。長屋下野守の孫も一緒に、棚守房顕の中江(宮島町中江)の別荘に籠っている時に出て行かれて、(永禄11年=1568年)2月15日に千部経を読むように命じられました。棚守房顕の宿でその座主の子供はお勤めのために出発することになりまして、その時の導師は吉田満願寺の真勢僧都です。それから真勢僧都が子供の頭を剃って、その子供は良勢と申すようになりました。

解説

当座主というのは大聖院の座主のことではないかと思います。この子供が「渡海」した。宮島と本土(現在の廿日市)を行き来することを表す言葉です。それで長屋下野守(毛利家臣の長屋吉忠)の孫と一緒に棚守房顕の別荘にいるときに千部経を読むように命じられた。当然、毛利からです。それで満願寺の真勢というお坊さんに手引きされて出家したというかお坊さんになった。頭を剃って「良勢」となったわけです。

宮島と毛利の結びつきと、その間に棚守房顕が強く関わっていることを示唆する話なんだと思います。つまり棚守房顕の影響力を示す物語ってことです。
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