棚守房顕覚書43 青三井の合戦

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棚守房顕覚書43 青三井の合戦

吉田の白豆峠へと、防州の衆の陶隆房をはじめとして、尼子陣へと天文10年(1541年)1月11日、陣(天神山?)を進め寄せました。その夜は殊の外、雪でしたが、これを知らないで1月12日に伯耆国の多高(高尾久友のこと?)の陣を吉田衆が登り切り落としました。五、六百人を一所で討ち果たしました。陶の衆はこれを見て、青三ツ井(=青光井山)の麓へと打ち出ると、尼子下野守は三、四千ほどが下り戦っているところで、陶衆の深野平左衛門、秋新右兵衛、宮川善左衛門、脇藤右衛門など宗徒の衆十四人が討ち死にしました。江良伊豆守は13箇所を手負いしたのですが助かりました。尼子下野守(=尼子久幸)をはじめとし、雲州(=出雲)の衆十五人は一所で討ち死にしました。敵、味方は対等であるといっても尼子下野守は大将の人の身なので、陶の勝合戦とする。雲州衆は12日の夜半に敗軍しました。少々を追討しました。これは吉田(毛利)のことです。

解説

棚守房顕覚書42 神主家の滅亡とその後の大内氏」では友田興藤が宮島へと警固船を進めて宮島を占拠します。桜尾城と宮島は岩国の大内本隊が吉田郡山へ行くには通らなくちゃいけない場所。ここを封鎖されれば岩国の大内義隆の軍は毛利の援軍に行けない(いや、宮島を占拠する必要はないか?)。ま、友田の軍勢では多少足止めができる程度でしょうが。一方で、先立って陶隆房の軍はすでに吉田(毛利)のすぐ近くに到達していて、友田によって大内と陶は分断された。

1月11日に、陶隆房の軍は尼子軍の目の前の天神山に陣を敷いた。これでは尼子軍は動けない。陶隆房+毛利元就は尼子軍と一進一退の合戦を行い、尼子久幸を討った。しかし大将の尼子詮久は生き残り、尼子は勝ち目がないと悟って撤退します。

合戦の経緯

そもそも、毛利が尼子を裏切って大内についたことが、尼子の逆鱗に触れ、この合戦が始まったので、筋で言えば大内が援助しないわけにはいかない。ただし最近では毛利と尼子はほとんど合戦がなく、尼子は大内の到着を待っていたのではないかという説もあります(毛利と尼子はほとんど合戦した形跡がない)。この説が正しければ、尼子にとって毛利は大内をおびき出す「餌」ってことになります。

しかし、大内の本軍ではなく、陶隆房が来た時点でもう敗北したってことは、尼子には勝ち目がなくて、無理な理屈にも思えるんですが、合戦が長引いたことと、陶隆房という美少年が「西国一の侍大将」と呼ばれる猛将で、尼子が考えるよりも遥かに優秀だったってことなのかなとも思いますね。

友田は孤立

さて、ここで問題になるのは桜尾城の友田です。尼子の支援を受けて、尼子のアシストをしたつもりが、尼子の撤退で、ただただ孤立することになります。この後、大内に殺されますが、この経緯を考えると、しょうがないですわな。
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