棚守房顕覚書88 厳島の戦(3)

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棚守房顕覚書88 厳島の戦(3)

陶晴賢(=陶隆房)は禅門の名前を全薑とした。
弘治1年(1555年)9月21日に当島(=宮島)に押し上り、宮崎(=現在の「塔の岡」…千畳閣五重塔が建っているところ)を大将の陣として、弘中三河守(=弘中隆兼)は古城(=勝山城?)を下って陣を取りました。その他の防州衆は思い思いに陣を取りました。

すると吉田からは毛利軍が9月23日に地御前に出発しました。国衆は各々が陸路を進み、沖西の火立石(=火立岩)まで出て、船数がなかったので興家(=村上水軍)に使者を送って、折節(その場合は)土州(=土佐)は表に出るとして、乗船するときは、まず安芸の部下に協力するべきとして、船敷2、300艘で下りました。

当島(=宮島)の城(=宮尾城=要害山)は心許なく思い、熊谷信直は9月26日に船敷5、60艘で当城(=宮尾城)に入りました。城の気負いは是非に及ばず。

陶晴賢は出家

陶晴賢(=陶隆房)は天文21年(1552年)に頭を剃って「全薑(ゼンキョウ)」という名前にしています。出家してお坊さんになったわけです。1551年に大寧寺の変で主君の大内義隆を自害に追い込んだことが原因でしょうね。出家には生まれ変わるという意味がありますので。

宮島は毛利の勢力下にあった
棚守房顕覚書84 吉見氏と陶氏と毛利氏」によれば1554年5月12日から宮島は毛利元就が占領しております。よって宮島は毛利の影響下にある。ところが陶隆房(=陶晴賢)たちが宮島に上陸。現在の五重の塔と千畳閣がある場所を中心に陣を張った。ここからなら、宮尾城(=要害山)がよく見える。ひっくり返せば宮尾城を「見るために陣取った」だけです。

宮尾城

ところで宮尾城(=宮ノ尾城)は、単なる城ではなく、ここから目の前を通る船をチェックするための「監視場」でした。通行料を払わないでスルーしようとする船があれば、「はーい、ちょっと待ってくださーい」と止めて、お仕置きをするための城です。水城と言います。つまり「戦争をするための城」とはちょっと違う。「心もとなく思う」のは当然ってものです。そこで熊谷信直は船5、60で城に入った。「気負いは是非に及ばず」ってのは、緊張が最高潮ですよ!って意味でしょうね。

興家と厳島合戦の意味

興家は村上水軍のこと。なぜこのような名前なのかはなんとも。毛利は村上水軍の援助を受けて、陶・大内との厳島合戦に挑んだってことになります。よく考えると、厳島神社の神主の友田興藤も村上水軍(興家三家)と結んでいたようなので、今回の陶晴賢VS毛利元就も、構図としては大内VS友田と変わらない。この合戦のもう一つの意味として、村上水軍という海賊集団と陶・大内の勢力争い…いや、はっきり言えば宮島での手数料(通行料)の奪い合いだと考えるとスッキリするんですよね。
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