棚守房顕覚書70 二條尹房社参

MENU
TOP >> 棚守房顕覚書(資料) >> 棚守房顕覚書70 二條尹房社参棚守房顕覚書(資料) 資料
スポンサードリンク

棚守房顕覚書70 二條尹房社参

御本所(本家)の二條殿(=二条尹房)は天下(=将軍のこと)からの仕事で、防州(=周防=大内)雲州(=出雲=尼子)の和談で下向しました。一条殿(=一条房通)が在島の時に、岡(=塔の岡)に尋ねると、長兵部丞の前の小家を二条殿の宿にと、一条殿から仰せつけられ、5日逗留しました。二条殿から使者がありまして、難波一条殿から、持明院殿(=持明院基規)を二条殿の使者と列して、棚守房顕の所へと来られました。天下から山口へ下向されるご案内をするようにと仰られて、ご案内をする者のことは知らないと申し上げて、小方に至る船のこと、その頃は小原中務丞は当島(=宮島)のことを知っていたので、政所代(実務のトップ)の能一兵部丞に申し付けて下向しました。周防の府中まで御馬二匹、人足五人を申し付けました。一条殿は3月28日、当島から帰洛しました。

二条尹房

二条尹房は公家。左大臣であり、関白でもあった。1545年からは大内義隆を頼って周防に入ったので、その移動の途中で宮島に立ち寄ったのか…それとも、それ以前に山口入りをしていたのか。なんとも言えませんが、棚守によれば山口行きの理由が「防州・雲州の和談」だというわけです。大内義隆と尼子晴久は「第一次月山富田城の戦い」以後、石見銀山をめぐる小競り合いをしていて、そこの話し合いか、それとも、それ以前のか…どちらにせよ、その和議が二条尹房の仕事だった。

それで宮島に二条尹房が滞在している時に一条房通も一緒にいた。棚守房顕覚書69 一条房通社参によれば1543年年末から1544年2月まで逗留していたので、その中のどこか5日間が二条尹房の滞在時期でしょう。となると、二条尹房は1545年以前にすでに宮島に来ていたって事でしょうね。素直に考えて「石見銀山をめぐる小競り合いの和談」ですね。

一条と二条

それで一条房通は土佐に行く途中宮島に立ち寄り、「岡(=塔ノ岡)の長兵部丞」に滞在していて、だから長兵部丞の前の家に二条尹房を宿泊させてくれと申し出があった。仲が良かったって事なんでしょうか。

それで山口に行く二条尹房と持明院基規を案内するように言われたが棚守は心当たりがなかった。能一兵部丞が同行した。ちなみに二条尹房と持明院基規は大内義隆が陶隆房に自害に追い込まれた時に死んでいます。
●難波一条殿がよく分からない。一条房通でいいのでしょうか
前のページ…「棚守房顕覚書69 一条房通社参
次のページ…「棚守房顕覚書71 九條稙通社参

棚守房顕覚書(資料)の一覧

スポンサードリンク

ブログや掲示板に紹介する場合

ブログやサイトに紹介する場合(タグ)

編集