棚守房顕覚書22 大野女瀧の合戦

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棚守房顕覚書22 大野女瀧の合戦

大永4年(1524年)申の年5月12日。武田光和と厳島上野介(=友田興藤)は大野の女瀧へ出張し(門山城の救援のために)、防州(=大内のこと)の陣と対しました。大野の城主の弾正少弼は陶尾張守へ秘密裏に懇望して、周防の軍の陣と城内の一味で、5月12日に城に火をかけたところ、佐東(=現在の広島市安芸南区沼田あたり)の神領(神社の土地)の衆が敗軍して、追討され、雑人輩(=身分の低い人たちのこと)が7、80人も防州家に討ち取られました。

解説

安芸武田氏の武田光和と彼らの援助を得た「自称」厳島神社神主の友田興藤が、大内を追い出しにかかるものの、西国の雄というかこの時点での西日本最有力の大名で、一時的とはいえ京都に将軍を奉じて上洛した大内義興にはさすがに叶わない。

雌雄瀧というのが門山城の西にありまして、この雌雄瀧は大小の瀧なんですね。その女瀧(メタキ)に兵士を進めた。これは門山城の大野弾正を救援するためなんですが、城主自身が敵の大内側と内通して、友田側は敗北を喫したわけです。うーん、戦国ですねぇ。

佐東衆は西方…もはや西か東など関係ありませんから、西方というか友田興藤(厳島神社神主)の側です。
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