棚守房顕覚書62 神主と社家

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棚守房顕覚書62 神主と社家

当社(=厳島神社)の社家衆を大内殿の御存分(=思い通りにする)にしました。防州山口の神明神社(=山口大神宮)、祇園神社、又は氷上妙見などの社家を自然に思われるに、当社の宝蔵の目録をご覧になって、それ以後はことの外、ご尊敬なされました。河津筑後(?=河津筑後守?)を以って、神主の佐伯景教へと命じるには、神主と社家は同輩であると目録に書記しておく。今後は、無礼であってはならないことを命じました。その後から社家に対して、神主は腰送りがありました。

これまでの背景

友田と小方が東西に分かれて、次期神主職を巡ってにらみ合いをする中で、安芸武田氏や尼子が介入したことで安芸国は大混乱に陥りました。ということは当時としては厳島神社神主は、そこまでするほどの「魅力」のある…と言うか利得のある職業だったということになります。神主職は守護・地頭・国司に近い意味合いがあったようです。これは厳島神社が広い「神領」を持っていたためでしょう。

混乱の解決策

そこで大内としては今後の戦乱のタネを摘むために神主職を無力化したい。なんなら厳島神社そのものを「なし」にするという考えもあったのかも知れません。しかし宝蔵の目録…これまで武将や公家が寄進したもののリストを見ると、厳島神社は歴史も長いし、先人たちの崇敬も篤い。文化を重んじる大内としては厳島神社を「なし」にすることは出来なかった。そこで前の神主の藤原興親の甥とされる小方の娘と大内の家臣の杉を結婚させ、杉を「佐伯景教」と改名させて厳島神社神主とした。

その佐伯景教をかつてのような権力者ではなく、「神主と社家は同輩」として、神主は社家に横柄に接してはいけないこととして、更に、神主から「腰送り」した。腰送りってのは「婚姻」のことでしょう。つまり、神主と社家の間で婚姻を結んで、上下関係をなくし、誰が偉いとも分からないようにしたってことではないかなと。
とことまで「神主の無力化」…無力化というよりは、神主が突出した権力を持たないような施策を行ったわけです。それだけ厳島神社の神主は強い権力を持っていたようですね。

ちなみに、佐伯景教が宮島に住んでいたのは最初だけで、後の時代のほとんどは能島に居たよう。無力化どころか、宮島に影響力がほぼない状態になったわけです。
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