棚守房顕覚書11 東西対立と厳島

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棚守房顕覚書11  東西対立と厳島

一、神主の藤原興親が京都で死亡し神主家が断絶して以後のことです。宮島は当初は東方についていたのですが、島の中の人たちは草津(=草津城か田方城)の羽仁(=羽仁美濃守)が東方に背くと、同様に東方に背きました。
永正15年(1518年)寅年1月16日に東方の座主大聖院)の児玉治部丞をはじめとして西方へ味方しました。宍戸の役人、その他の東方だった人たちは島の外に出てきました。
永正15年(1518年)3月3日。五日市、廿日市の小方の東方の人たちは小舟7、80艘で押しかけて、島の中の土地を切り取り、取り返し、西方の人たちは合戦に負けて、山の中に入り、3月9日の早朝に(本土側の)大野に渡りました。

そこで羽仁美濃守は野間四郎という矢野村の豪族と契約して、浅沼という中野村・瀬野村の豪族と結託して警固船100艘ほどで五日市の永明院宮崎山に城をこしらえて立て籠も理ました。3月8日? 同年の11月12日の未明に永明院で高木杢助、中村兵庫助、その他の五日市の小方(=東方)の人たちが14、5人討ち死にしました。
その時、宮島は西方になりました。羽仁美濃守により宮島の前の役人の新里を島から退去させ、花谷山の城を、勝山(=勝山城)と名付けました。
大永1年(1521年)の1月14日。五日市の小方の東方の人たちは7、80艘ばかりで押し寄せ、14日の早朝に児玉治部丞を弓で射殺しました。15日の未明に東方は敗軍しました。

戦火は拡大へ

最初は本土の桜尾と藤掛という近接した土地で東西に分かれて睨み合っていただけだったのですが、それが宮島に飛び火し、宮島でも合戦が繰り広げられます。しかも草津(広島市西区)の羽仁美濃守は、矢野・中野・瀬野(全て広島市安芸区)の豪族を巻き込んで行きます。つまり最初は厳島神社の神官の後継という問題が、宮島と廿日市という局地的問題から、安芸国を巻き込んだ大混乱へと突入したのです。

棚守房顕の見方

これを見た棚守房顕厳島神社の神主という職種を「危険」と認識したのではないでしょうか。この後、棚守房顕は権力を握りながら、神主にはつかないという手段を取ることになります。それは自分の身を守りつつ、戦乱を避ける知恵だったのでしょう。

棚守房顕覚書では
小方=東方=桜尾
友田=西方=藤掛

という書き方なんですが、これが曖昧です。大事なのは東西のどちらか?ではなく、この戦乱そのものが棚守房顕にとって大事だったってことではないかなと。

勝山城
現在の厳島神社の出口にある厳島宝物館の裏手にあった城。厳島合戦では陶晴賢がここに陣を敷いた後に、塔の岡(=五重塔があるところ)に陣を写して、宮尾城攻略をしようとしました。つまり要害ではあるんですね。

永明院宮崎山
よく分からない。
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