棚守房顕覚書26 興房の連歌興行と義興饗応

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棚守房顕覚書26 興房の連歌興行と義興饗応

大永5年(1525年)の1月5日の立春に「又、一重山あたらしき霞かな」の発句の御連歌を岩戸陣(廿日市佐方町)で興行しました。その他、いろいろな儀式が多々ありましたが、書き記すことができませんでした。
大永5年(1525年)2月10日。屋形が、陶尾張守が岩戸(廿日市佐方町)から渡海すると申しまして、種々様々なご馳走がありまして、さながら山口(=大内の地元、当時は西の京と呼ばれたほど栄えていた)での物のようでした。棚守の宿所でのことです。

連歌と武将

陶興房が岩戸の陣で連歌を催したとあります。
陶興房は和歌に秀でた風流人で、同時に武功をあげる武人でもあるという人物。ところで連歌ってのは単に歌を歌うだけではなく、持ち回りで歌を繋げていく。これはかなりの素養がないと出来ないことです。また、連歌ってことは陶興房がここで一人で歌を歌ったのではなく、連歌ができる素養のある数人が参加しているはずです。
誰と連歌を歌ったか
その数人に関しては何も記述がありませんが、岩戸の周囲の有力者だったのではないかなと思います。その周囲の人たちと、陶興房が連歌を一緒に作っていく。地域の有力者は陶の「素養」を感じ、立派な人物であるなと考えたはずです。又、戦後とはいえ、そのような風流なことをする「余裕」があるということは、頼れる人物だと考える。さらに連歌を一緒に作ることで一体感を感じる。
連歌を歌う意味
連歌を歌うことで地域と陶興房は強く結びついた、そういう「文化」があったのだろうと思います。実は厳島神社には現在「天神社」という神社がありまして、そこが明治以前までは「連歌堂」という、定期的に連歌の催し物をして居た施設だったのです。どうも連歌を歌うことで結束を強めるという感覚があったよう。

饗応

連歌の催しをした後、勝山に屋形を建てて居住していた大内義興・大内義隆親子が陶興房を呼び出して饗応した。連歌の催しがうまくいき、地域の統制を強めた祝いではないかなと。
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