棚守房顕覚書65 恒持戦死、義隆ら帰山

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棚守房顕覚書65 恒持戦死、義隆ら帰山

雲州衆の味方のものたちは、皆、心変わりしました。
天文12年(1543年)5月7日。防州衆は敗軍しました。アタカイ(阿陀加江=松江市東出雲町の地名)の津(=港)まで大内義隆と介殿(周防介恒持=一条恒持=大内晴持=大内義隆の養子)は下向しました。大内義隆は船に乗りました。介殿は別の船に乗りましたが、介殿、細川是久、右田弥四郎、福島深三郎の四人が討ち死にしました。屋形(=大内義隆)は船で退却しました。陶、内藤は陸地から退却しました。雲州衆の人は7、8000人で追撃してきました。しかし、追い返し、追いもどし、退却する時はわずかな人数になりました。陶隆房の部下の深野勘解由左衛門尉(=深野重成)と内藤の部下の熊野蔵人大夫と何かありまして、深野は熊野蔵人の馬から切り落としました。内藤下野守は馬から降りて、陶尾張守に向かって「かくのごとき、子細、如何あるべき」と言いましたので、深野勘解由左衛門尉に腹を切らせ、その後は陶・内藤は同道しました。
屋形にお供して、山口に下向しました。雲州に置いて、安芸国の衆の小早川興尹?(=小早川正平ではないか?)は八幡において主従10人余りが腹を切りました。毛利殿は無事に帰陣しました。これらは雲州から山口までのことです。

これまでのあらすじ

厳島神社の神主の跡目争いを発端とした合戦を制し、安芸国を勢力下に収めた大内義隆は、その勢いのままに雲州…出雲国へと出兵します。友田興藤を影から操っていたのは尼子ですから、尼子をどうにかしないといけない!と大内が考えるのは当然のこと。
大内は雲州…出雲(島根県)の国人衆から「尼子をどうにかしてくれ!」と要請を受けて雲州攻めをするのです。国人衆のは大義名分ですが、同時に味方でもあるのです。十分な勝算があった(表面的には)。
しかし、大内軍は手痛い敗退をすることになります。要請をした味方であるはずの雲州の国人衆が寝返ったのです。単に強い方になびくだけなんですよね。戦国時代ですから。
単に負けただけでなく、大内義隆の最愛の養子「一条恒持(=大内晴持)」を失うことになります。撤退時に溺死したのだと思われます。

深野と熊野の諍い

大内義隆はどうにか逃げますが、残された陶や内藤といった有力な部下もかなり命からがらだったようです。その中で部下の深野と熊野蔵人が揉めた。陶と内藤の間に確執があったのでしょう。今回の第一次「月山富田城の戦い」は武断派の陶隆房が推したもの。内藤とその部下には「こんなことになったのは陶が原因」という思いがあったのではないかと思います。

もちろん雲州攻めを決定したのは主君の大内義隆なのですが、大内義隆と陶隆房は、知らぬもののいない「衆道関係(=同性愛)」の間。日本の同性愛は少年愛ですから、この時点で肉体関係があったわけではないでしょうが、陶隆房の主張を大内義隆が採用した要因に「衆道」があったのではないか?と内藤や他の武将は考えた可能性は高い。まだ精神的にはつながっていて、陶の意見を採用して雲州攻めを決断した…周囲の武将はそう考えた。こんな敗走に至ったのは陶が悪い……そこで言い争いがあり、「馬から切って落とした」のではないでしょうか。

小早川正平の死

小早川正平が退却時に切腹。この小早川正平が死んだことで、息子の小早川繁平が幼少ながら跡を継ぐのですが、毛利元就と大内義隆が小早川繁平を追い出して、毛利元就の子供の小早川隆景が当主となります。それが毛利の安芸国取りの大きな一歩になるのですから、この第一次「月山富田城の戦い」は大内と毛利にとってかなり大きな「転換点」となった合戦と言えるでしょうね。
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