棚守房顕覚書67 萬里小路惟房社参

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萬里小路惟房社参

萬里小路(=万里小路惟房)殿が山口へと下向なされまして、その帰洛(山口から京都へ帰る)の時、厳島神社に社参しました。宿坊は大聖院でした。大永の辰年の10月28日。二夜三日の社籠(=神社にこもること)しました。神社に参拝の時の儀式は山口から御中間(=役職・立場の名前)の衆を14人。左右に7人宛て、白張(=白い服)に立ち烏帽子、松明を灯し、お供に大内の楽人の山井安芸守は、御劔を持ち、神物は丸鞘の御太刀ばかりでした。

万里小路惟房と大内

万里小路惟房は公家で書と歌の有名人。大内は京びいきというか京かぶれで、京都の文化を取り入れるのに一生懸命でした。特に養子の一条恒持(=大内晴持)が死んで以降は、文弱化したとされています。一条恒持を戦で失ったことが、よほど悲しかったか?なんてことがよく言われますが、大内は伝統的に代々、京かぶれですから、一条恒持の死は要因の一つではあっても、それだけが理由ではないでしょう。万里小路惟房を山口へと呼び寄せたのは、そもそもの京かぶれにプラス厭戦があって拍車がかかった、のかもしれません。

大永の辰

万里小路惟房は厳島神社に「大永」の辰の年に来たとあるのですが、大永は「1521年から1527年」で、この中に辰年はないことから、記述ミスか記憶違いだと思われます。万里小路惟房が1513年生まれで1573年に亡くなっていることから、その間の「辰年」となると、永正17年(1520年)、天文1年(1532年)、天文13年(1544年)、弘治2年(1556年)、永禄11年(1568年)のどれか。これまでの話の流れで行けば素直に「天文13年(1544年)」でいいのではないかなと。ま、大永も辰もどちらも間違っている可能性も十分ありますが。
となると万里小路惟房はこの時31歳ほど。

楽人も
万里小路惟房が山口で歌を詠み、その京都への帰りに厳島神社に立ち寄った。その時、十四人の御中間と七人の従者を連れていて、楽人もいた。彼らは大内が手配したもの。彼らが厳島神社にやってくるということは、大内が厳島神社をかなり篤く崇敬している証拠です。単に立ち寄ったのではなく、かなり大げさに人をつけたのですからね。単純に厳島神社に立ち寄ったのではなく、京の雅な文化人を厳島神社に、カッチリとした人員を配して参拝させたことには大内にとって大きな政治的な意味があったのだと思います。
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