棚守房顕覚書127 大内輝弘亡ぶ

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棚守房顕覚書127 大内輝弘亡ぶ

筑前の諸勢(=九州に遠征していた毛利の軍隊)は無事に引き退き、大内輝弘は防州(=周防)の打石(?)に上ったところを腹を切って開陣(=陣を引き上げて解散すること)しました。
その時、島の中の気負いは申すに及ばず、社頭(=社殿)に小屋をかけました。

これまでの経緯

宮島は最初は大内の勢力下にありました。大内の庇護を受け、厳島神社大鳥居を立ててもらったし、金銭の援助もしっかりと受けていました。しかし、大内は陶に殺され、その陶を毛利が殺した。毛利としては主君の大内の仇をとった形になったのですが、その後、大内義長を殺して大内を滅亡させてしまった。山口の中には毛利に対する不満というか大内再興の機運が高まりました。毛利は九州に進出し、大友を追い詰めるのですが、大友は形勢逆転のために大内の血を引く大内輝弘を山口に上陸させます。

毛利の庇護を受けている宮島の人たちは、戦々恐々。毛利の小早川隆景や吉川元春に鎮圧され、大内輝弘は自害に追い込まれたのだから宮島の人たちが「気負う」ことはないような気がしますが、それは後世の歴史を知っている私たちの勝手な感想です。宮島としては大内支持者が宮島に乗り込んできて、乱暴を働くかもしれないと恐れた。
そこで、社殿に仮設の小屋を作って、そこに篭ったのではないかと思います。神社は戦争の神「厳島大明神」のエリアであり、そこにいる限りは大名とて殺せない…と思っていたのかもしれませんが、大内輝弘はキリシタンで山口の寺を焼き払っているので、実際に大内がやってきたら厳島神社もろともに焼き殺されていたと思いますが。
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