棚守房顕覚書75 房顕上京

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棚守房顕覚書75 房顕上京

棚守房顕は52歳になりました。午年(=天文15年=1546年)に佛詣でを申しまして、一条殿(=一条房通)が宮島に下向した時に馳走したことについて、ことの外、御懇(=感謝)を申すことができないほど幸せであり、参礼を申したいとの事ですが、大内殿へ案内もできず、参礼のことは知って立ち寄らない理由を申しますと、玉体(=後奈良天皇)の御宸筆(=天皇の文字)36首の歌仙を下され畢(オワ)った。近頃の面目次第です。
鞠の門弟のことで飛鳥井殿(=飛鳥井雅俊)へ参り、京都で御意を得ました。

解説

現代語訳ができてないのでいずれ見直ししましょう。

棚守房顕が52歳になった1546年。次のページで高野山に行くことになっていて、「仏詣」はそのことでしょう。一条房通が1543年から1544年に宮島に逗留した時に、歓待したところ、それで感謝されて、お礼がしたいと言われたのですが、一条房通が宮島にいた時にやってきた一条房通の親戚の二條尹房を山口に案内して欲しいと求められたのですが、案内する人材を紹介できなかった。それで申し訳なくて、お礼を言われるのは心苦しいと思っていたら、後奈良天皇の宸筆をプレゼントしてもらった。

後奈良天皇の宸筆

ちなみに現在の厳島神社の鳥居にかかっている扁額は有栖川宮熾仁親王が書いたものですが、それ以前は後奈良天皇の宸筆でした。ここでのプレゼントとは関係ない、と思いますが。

ところで戦国時代の朝廷は金がなく、天皇も貧乏でした。そこで後奈良天皇は「宸筆」を売ってお金にしていた。それくらいしか売るものがなかったんでしょう。宸筆ってのは「天皇が書いたもの」って意味です。

棚守と蹴鞠

棚守房顕は京都に行き、飛鳥井殿に行った。飛鳥井殿は蹴鞠の有名流派。棚守は蹴鞠を嗜んでいたよう。蹴鞠については「棚守房顕覚書69 一条房通社参」にもあります。そこでは土州一条(=一条房冬)の息子と蹴鞠をしたとあります。文化人ですね。
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