棚守房顕覚書77 陶晴賢の謀叛

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棚守房顕覚書77 陶晴賢の謀叛

大内殿(=大内義隆)は天文10年(1541年)丑年から天文20年(1551年)寅年まで、11年間、神領(=厳島神社の領地)を御存知していたところ、陶隆房(=のちの陶晴賢)はどのような天魔のなすことか…謀叛到来のこととなりました。山口のことは申すことが出来ないので、毛利殿へ申し談義しました。

神領に関する事情

周防山口の大内義隆が自害に追い込まれるのが1551年。謀反が起きて死ぬまで、厳島神社の神領は大内が管理していた。管理というか、厳島神社が大内の勢力下にあった。これは厳島神社の神主の座を巡って友田と小方が争い、その後、友田が尼子の援助を受けて謀反を起こしたことから、厳島神社を大内の手の内に収めることで、戦乱のタネを摘もうということ。

御師

大内義隆・陶隆房、そして毛利元就の三人は棚守房顕を御師としています。御師というのは宗教指導者。指導者というと堅苦しいですが、要は武将が神様にお願いをする時に神様との間に立ってやり取りをする人。武将たちの今後の活動の助言をするわけではありません。

そんな棚守が、陶の謀反が起きると「毛利殿へ申し談ず」としている。これは「陶」が「毛利へ」ってことだと思いますが、「棚守が」ってこともあるのかも。ちなみに、陶隆房は謀反の前に毛利元就との間に書簡のやり取りをしていて、陶隆房の謀反には毛利の影がチラチラと見える。影で糸を引いていた…って可能性はある。
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