棚守房顕覚書36 毛利氏の寄進

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棚守房顕覚書36 毛利氏の寄進

天文9年(1540年)10月2日。吉田(=毛利元就の居城)から祇園の神田が使者として来ました。桜尾(=友田興藤)は防州(=大内のこと)の敵とも見えず、味方とも見えない。祇園の神田は世情を忍び、ためらっていました。その時、色々な寄付として太刀1腰、刀料足千疋を吉田(=毛利元就)からいただきました。

毛利氏尼子氏と戦う
天文9年(1540年)10月10日。熊野左馬助、石田彦左衛門尉(=石田六郎左衛門尉の記述ミスか?)を吉田へ進めて、10月10日に吉田衆(=毛利軍)は尼子陣にかかりました。三澤三郎左衛門尉(=三沢為幸)は太男(=おそらく「大男」)で、太力(=おそらく「大力」)がありましたが、光長四郎右衛門尉(=井上七郎次郎)が討ち取り、その他、雲州(=出雲国)の衆を数十人、吉田(毛利)が討ち取りました。粟谷、井上、児玉がそれぞれ手柄を上げました。その他、何度かの合戦がありましたが、吉田城の衆は一度も不覚をとりませんでした。

解説

後には、元厳島神社神主の友田興藤とその弟の友田広就は大内に謀反を起こすのですが、この時点では「敵か味方か分からない」状態であったと棚守は書き記しています。神社の一介の職員である程度の人物が「知っている」べき情報なのか、それともその程度のことは関係者でなくとも考えていたことなのか。そこらへんはなんとも。ただ、毛利元就の御師となった棚守は、もはや無関係の人物とは言えないのかもしれないですね。

吉田郡山城の毛利は尼子を退けます。大内の援助を受けているとはいえ、さすが後に大大名になるだけのことはあるな、というべきか。棚守は大内、毛利とその庇護を受け、神社の権力を握る人物ですから、毛利を持ち上げるのは致し方ないことかもしれません。ま、実際に毛利は勝ってますしね。
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