棚守房顕覚書42 神主家の滅亡とその後の大内氏

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棚守房顕覚書42 神主家の滅亡とその後の大内氏

興藤大内氏と絶つ
一、興藤は防州(=周防国)へ手を切ると申して、興家三家の警固船2、30艘を呼びました。天文10年(1541年)1月12日のことです。

防州衆は岩国から厳島神社に参詣がありまして、現行の間に?、征伐するべきと政所の五日市の宍戸の代官の中村石見守の防州衆を山へと追い詰めて、海へと下って、船に乗って退きました。この段は島中の儀でした。

解説

ちょっと現代語訳を書いてて変なのですが、解説でこういうことだろうと書いていきます。

ついに友田興藤が大内(防州が本拠地)に反旗を翻しました。
もともと険悪な関係ではありましたが、尼子の支援を受けて大内と対峙することになります。大内も友田を放置するということは、尼子の侵略を見逃すということになりますから、放って置けません。
友田は「興家三家」の警固船を呼び出しました。興家三家は記述ミスでしょう。「興藤」を「興家」と書いたのではないかと。「三家」の方はよく分かりません。友田には結束する三家があったのかも。一つは元神主の友田興藤、一つは現神主の友田広就、もう一つは前神主の「藤太郎」の家ではないかと思います。まぁ、だったら「友田三家」って書くべきに思うのですよね…やっぱり、分かりませんね。
興家三家は「能島・来島・因島」の村上家のことのよう。つまり友田は村上水軍の援助を受けていたってことになります。しかしなぜ「興家」と書くのは分からないですね。

宮島での攻防

それはいいとして、防州衆…つまり大内のものたちが神社へ参詣のために岩国からやって来たので、友田は宮島で防州衆を追い詰めた。警固船2、30艘なんて大した数じゃありません。この程度でこれから大内と一戦しようなんて身の程知らず。しかし、これは大きな意味があります。なにせ、吉田郡山城では尼子と毛利がやりあっているのです。尼子3万人に対して毛利は数千という少数。山口・岩国から大内が毛利が篭る吉田郡山城に援軍を送るには桜尾城のあたりを通らないわけには行かない。宮島は交通の要所だった。友田は宮島を占拠した。すでに陶隆房は毛利の応援に行っていて、友田は大内の軍を分断しようとしたのでしょう。尼子からすればナイスアシストってところです。

ところで、防州衆は何をしに宮島に来たのでしょうか。
戦勝祈願でしょうね。
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