棚守房顕覚書94 義長、鶴千代丸の最後

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棚守房顕覚書94 義長、鶴千代丸の最後

大内八郎義長(=大内義長)、陶鶴千代丸(=陶長房の子供)…5歳を、野上隠岐守(=野上房忠)はお供していて、長門の谷の寺(長福寺)まで退却しました。先勢(=軍の先頭)として天野紀伊守隆重(=天野隆重)が追いかけまして、大内義長は腹を切らせ、陶鶴千代は幼少でしたので、野上隠岐守(=野上房忠)が刺し殺しまして、野上はその刀で腹を切りました。哀れな有様です。
その後、毛利元就はまず防長を切り取り、従えて帰陣しました。

大内義長(=大友晴英)の人生を振り返る

大内義長(=大友晴英)は、大内義隆の姉妹が九州の大友義鑑に嫁いで生まれた子供。つまり大内義長は大内義隆から見ると甥っ子。しかし大内義隆に子供がいなかったので、幼い大内義長を「猶子」として引き取り、育てました。ところが大内義隆に実子(大内義尊)が生まれたことから、大内義長は大友家に送り返されます。かなり揉めたらしいですが、これはしょうがないかなとも。

大寧寺の変の後
その後、陶隆房により大寧寺の変があり、大内義隆が死んでしまうと、陶隆房によって大友からまた大内義長は呼び戻されます。大内義長は確かに「傀儡」で実権は陶隆房にあったのでしょうが、大内義長からすれば「恥をかかされた叔父(大内義隆)への復讐」で歓喜していたのかもしれません。

厳島合戦の後
それが今度は陶隆房が厳島合戦で死ぬと、大内義長は毛利元就に殺される。形式は自害ですがね。なんというか因果なお話です。これで完全に大内家は滅亡。大内は32代続いた名門で、大内義隆の父の大内義興は足利義稙(=足利義材=足利義尹京)を連れて上洛して、「誰が将軍になるのか」を左右するほどの力を持った「天下人」だったのです。一時的ではありますが、それでも凄いことですよ。それがその後は二代で滅亡。うーん、戦国だなぁ。
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