棚守房顕覚書40 外宮遷宮

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外宮遷宮

友田興藤は(外宮の)遷宮の時に社参するべきところ、大田衆(=山県郡大田庄)と己斐の大蔵大夫とで先陣と後陣の争いがあり、時々、(土地の)取合いにもなりそうだったので、天文9年(1540年)10月28日の遷宮には社参しませんでした。岩国に大内が在陣していて、屋形から外宮の遷宮の時に御太刀1腰、料足12貫を文宛で受け取りました。陶隆房からも太刀1腰、500文を参らせました。尼子の吉田陣の多古左衛門尉の所から、先年、宮島に在島の時、神楽銭などを地御前に持ってきて、田内蔵助に渡しました。防州の儀とは密々ですが、尼子と桜尾は一味なので隠さなかった。色々の儀は多々あるが、書記することはできない。

解説

棚守はあくまで厳島神社の社家の一人。現在は、大内や毛利の御師となり、宗教的な繋がりを持ち、なおかつ大内の援助を受けている。棚守は大内側の人間で、大内は友田とは敵対しています。友田興藤の命令で大願寺は、荒廃していた外宮…つまり現在の地御前神社を改修した。それで遷宮の時に友田興藤は地御前神社に来ないとおかしいのですが、揉め事を抱えていて社参しなかった。
もちろん、棚守としては、友田に対する「批判」がしたいのです。敵対しているからではなく、友田兄弟は厳島神社神主としてはふさわしくない。大事な遷宮の儀式を自分の都合ですっぽかすなんて許しがたい。

一方で大内は奉納品をよこした。つまり、棚守は遠回しに「文化を重んじる」大内こそが権力者としてふさわしいと言いたいのです。

尼子との関係

一方、尼子の配下の者からも奉納があった。
友田興藤は神主であるのに、参加しなかったというのに、尼子からは援助があった。これも棚守としては友田興藤を批判している。

その際に大内との関係を隠した。大内から援助を受けて、奉納を受けていることは秘密ごとなので隠した。ここではっきりと尼子と桜尾(友田)は「一味」と書いてある。友田は厳島神社の神主なので友田と厳島神社は「一味」であるとしても、そこに「尼子」が入っている。隠さなかったというのがどういう意味か分からないです。

安芸武田氏が大内に駆逐された以上、友田は後ろ盾として尼子にすがった。尼子も山陽地域への足がかりが欲しい。友田と尼子は大内を敵とすることで利害が一致した。
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