棚守房顕覚書29 陶尾張守岩戸山より矢野へ進出

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棚守房顕覚書29 陶尾張守岩戸山より矢野へ進出

大内義興は大永5年(1525年)3月26日。門山に渡海し、陶尾張守は大永5年(1525年)4月5日に岩戸山の陣を替えて、矢野に渡りました。それから志和(現在は東広島市・かつては賀茂郡志和町)の天野(志和の地頭の家)の米山(志和の米山城)を取りにかかり、和談しました。そして備後の黒山で合戦をして、陶興房の部下の江良三郎、屋形(大内)の三島彦九郎、陶の部下の深野杢助、深野平太郎、宗徒が十人ほどが討ち死にしました。尼子側の牛尾備後守、米原の衆、備後越(?)など数十人が討ち死にしました。防州の衆は備後から帰陣して、浅沼(=阿曽沼=中野村・瀬野村の氏族=現在の広島市安芸区の中野・瀬野の氏族)の野村(阿曽沼の一族)、大藤は備後陣の留守の間に謀反を起こし、瀬野村の鳥子城を取りにかかったが、野村杢允に腹を切らせて和議を要請した。

解説

大内が宮島に居て、友田と和議を結んで、廿日市を平定すると次は、矢野、そして広島での東側の東広島の志和へと兵を進めました。次は備後です。備後ってのは現在の福山市です。しかし備後に黒山城というのがあったのかはなんとも。備前には黒山城と呼ばれる城があるのですが。そこで大内は城を取ったとは書いてないのを見ると、攻めたが落とせなかったってことではないかなと。そうして大内が備後で合戦をしている間に、安芸区の中野・瀬野で謀反が起きていた。

平定しているように見えて出来ていないんですね。
不満というべきか謀反の火種はまだまだくすぶっている。

矢野・中野・瀬野と浅沼

矢野・中野・瀬野の地名と浅沼という名前は「棚守房顕覚書11  東西対立と厳島」でも見られます。彼らは西方(友田)について戦況を引っ掻き回した人たち。友田は大内と和議を結んでとりあえずは神主を辞職したのですが、それでは収まりがつかなったのか、それとも全く別の「野望」があって動いたのか。
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