棚守房顕覚書72 万句連歌興行

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棚守房顕覚書72 万句連歌興行

大内義隆から当社(厳島神社)に仰せつけられ、万句の発句(=最初の歌)は4月15日の「影打つ角取りや嶋ね夏木立」です。これを巻頭として、4月18日にまず千句を三日興行し、8月15日に成就しました。千句の三ケ日の興行の会所は朝座屋です。連歌師は京衆の等俊、道休、有定、宗雅、大休たちです、その他の地元の親尊(=田親尊)をはじめとして連衆(=連歌を得意とする人たち)がいました。また二、三カ年あって、防州から仰せつけられて、今度の発句は「さをしかの月にさやけき宮ゐかな」でした。これを巻頭として8月18日から11月までです。このうちの千句は訓読千句で興行しました。

連歌興行

応仁の乱以降、京都の文化は地方に広がり、連歌は地方で盛んになっていきます。連歌は知識人の教養として重要視されました。
連歌は前の人の言葉から連想して、次の人が句を作って行くもので、知識とセンスを融合させ、コミュニケーションを取って行く作業です。普通は575を書いて、次の人が77を書き、次の人がまた575、次が77と延々とつなげて行く作業で、基本的に100句で1巻となる。で、100句目のことを「挙句」といい、それが「挙げ句の果て」であり、「一巻の終わり」。

万句連歌

それはともかく。
それを10000句作るのが「万句連歌」。気が遠くなりますよね。この壮大な芸術活動をやり終えるのに3ヶ月から4ヶ月かかったと書いてあるのです。大内義隆は宮島を芸術と神の島にしようとしていたのではないか?と思いますね。それは芸術・文化的に優れていることが権力者の条件と彼が考えていたからでしょう。
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