陶晴賢

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陶晴賢

陶晴賢(スエ・ハルカタ)。室町末期(戦国時代)の武将。武断派で西国無双の侍大将とまで言われる。大内義隆の家臣だったが、大寧寺の変で大内義隆を自殺に追い込み、大友宗麟の弟の晴英(のちの大内義長)を立てた。大内義隆とは衆道関係(同性愛)にあったとも言われる。大内義長は傀儡で、実権は陶晴賢が握っていた。
1555年 厳島で陶晴賢と毛利元就が合戦をした。
厳島で陶晴賢は死亡。首実検がされる。
廿日市市の洞雲寺に墓がある。

名前が読み難い

名前が読みにくいことでおなじみの人物。陶晴賢と名乗ったのはわずかな期間で、厳島合戦の直前から。ほとんどの人生を陶隆房で通したので、陶隆房と書いた方が自然に思えるが、宮島関連の書籍では陶晴賢でほぼ統一されている。まぁ、厳島合戦の時点では陶晴賢なんだからしょうがないのだけどね。

陶隆房の人生

陶家は代々大内に仕える家でした。
●陶はそもそも大内の分家。

戦国時代ですから、大内は必ずしも安定した政権というわけではなく、代替わりごとに内部で揉め事をするのが常でした。陶も大内と揉めたことがありまして、要は決して忠臣というものというわけでもなかったのです。でも、陶隆房は大内義隆に対してかなり忠誠心が在りました。そこに衆道があったのは否めないでしょう。まだ陶隆房が幼い頃から大内義隆の寵童として仕え、繋がりを深めていて、大内義隆が若くして大内を継いだ時にも支えていたと思われます。ちなみに陶隆房はかなりの美少年だったらしいです。
●寵童とは同性愛関係にあったということ。

武闘派隆房

西国無双の侍大将
陶隆房はかなりの武闘派。
あちこちの戦で戦績を残し、西国無双の侍大将と呼ばれました。そして調子に乗って出雲の尼子への侵略を提言します。大内義隆はその提言に乗って出雲へと行きますが、結局敗北。ただ敗れただけならいいのですが、大内義隆の養子、大内晴持が船から落ちて事故死してしまうと、急に大内義隆は戦争への興味を失い、寺社への援助などの芸術文学方面ばかりに興味を持つようになります。ちなみに大内晴持は義隆の養子ですが、ハッキリ言えば愛人です。これから陶隆房と大内義隆の関係はこじれ始めます。

武闘派の陶隆房は立場を失います。出雲進出を提言したのは彼ですから、(愛人の)大内晴持が亡くなった遠因もやはり陶隆房と言えるでしょう。武闘派は当然、陶だけでは在りませんから、武闘派の人たちと幅を利かせていた文治派を暗殺しようとしますが、失敗。ますます立場が怪しくなります。

大内義隆の衆道

大内義隆には妻がいましたが離縁。その後、2番目の正室「おさいの方」が妊娠しました。この時生まれた子が大寧寺の変で死ぬ大内義尊です。しかしこの「おさいの方」が妊娠した子供を誰も大内義隆の子供だとは思っていませんでした。そりゃそうでしょう。大内義隆は家臣が引くくらいの同性愛者だったのですからね。DNA鑑定なんてものがない時代のことです。大内義隆が「私の子だ」と言えば、家臣は「はい」と言うしか在りませんが、誰にも証明はできません。つまり、疑念はこの後もくすぶり続けることになります
もしかすると大内義隆は完全に女性に興味を失っていて、女性に対しては不能だったのかもしれません。だから子種は誰でも良かった。体裁さえ整えば、なんだって良かった。それが真相かもしれません。ま、ゲスな推測ですが。

また、この「おさいの方」の父親が小槻伊治という人物だったのですが、大内の屋敷にやってくると酒池肉林の大騒ぎをして、家臣たちを下に見るとんでもない人物で、非常に評判が悪かった。実際、大寧寺の変では真っ先に殺されています。

大寧寺の変へ

そんな鬱憤の溜まった結果が大寧寺の変です。
山口では「陶隆房が謀反を起こすぞ」と噂が立っていたというのだから、相当なことです。そしてそれだけ噂になりつつも、大内義隆は陶隆房を誅殺しなかった。まぁ、そこには衆道があった…つまり信頼があった、ってことなんでしょう。
結局大寧寺の変で大内義隆は自殺、大内義隆の実子とされた大内義尊は殺された。大内義尊はこの時、5歳か6歳。陶隆房は助命すると言っていたが結局殺しました。
●のちに起こる本能寺の変ほどではありませんが、大寧寺の変もかなりの衝撃だったとされます。

大内義隆の死後、陶隆房は自分が領主になったのかというと、これが違う。

大友晴英(大内義長)の擁立へ
大内義隆の姉と、九州の豊後の大友義鑑の間の子、大友晴英がいました。大内義隆にまだ大内義尊が生まれていなかった頃、後継として大友晴英は大内の養子になった。まぁ、辻褄はあう。大内義隆の姉の子ということは、大内の身内であるのは間違いない。それに大友からしても悪い話じゃない。大友は大歓迎したが、大内義尊が生まれると養子縁組は解消された。まぁ、これも致し方のないこと。何せ子供が生まれたのだから(ただし、誰も義隆の子だとは思っていない)。

陶隆房はこの大友晴英(後の大内義長)を当主として迎えます。どうして陶隆房は下克上ではなく、晴英を迎えたのか? 陶は大内義隆の子ではないだろう大内義尊を当主として仕えるのは我慢がならなかったのではないか?と思っています。それにその不満が陶だけではなく大内家臣の中に渦巻いていたのではないかと。陶隆房は体制を立て直そうとしますが、そんな状況を知謀策略の毛利元就が見逃すわけもなく、安芸国は毛利に奪われます。そんな中で起きたのが厳島合戦です。

厳島合戦へ

厳島は交通の要衝です。
ここを取るか取らないかは、今後の情勢に大きく影響します。
ですが、ここは内政を立て直すのが筋。
ところが陶隆房は厳島合戦に突っ込みます。
そして敗北。
これで大内と陶は完全に滅びます。

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