大聖院…多くの観光スポットのある厳島神社の別当寺だった寺

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大聖院(ダイショウイン)

宗教真言宗御室派(シンゴンシュウオムロハ)
名前多喜山水精寺大聖院(タキヤマスイショウジダイショウイン)
境内には
勅願堂波切不動明王)・仏足跡
五百羅漢庭園
大師堂
観音堂(大聖院)…十一面観世音菩薩
摩尼殿(三鬼大権現=弥山三鬼堂にも祀られている)
八角万福堂(宮島七福神・瓦焼七福神)
仁王門
遍照窟
梵鐘

などがある。弥山の周辺の施設…弥山本堂(求聞持堂)・大日堂霊火堂三鬼堂なども基本的には大聖院の管轄のもの。
4月と11月には火渡りの行事…柴燈護摩修法(サイトウゴマシュウホウ)がある。

厳島神社を通り抜けて、白糸川を上流に登る「滝小路(滝町筋)」の坂を登るとある寺。大聖院の横を白糸川が通り、弥山への登山道があります。登山道の途中には白糸の滝・瀧不動・滝宮神社などがあります。大聖院を含めてこれらは宮島に行ったのならば訪れるべき観光スポットでパワースポット。
白糸川は戦国時代の途中まで厳島神社の境内(現在の海浜のところ)に流れ込んでいた。

アクセス

歴史

平安時代
歴史文献で登場するのは安元3年(1177年)の「伊都岐島水精寺勤行日記注進状案」及び同年の「太政官牒案」での「水精寺」。伝承によれば、大同元年(806年)に空海が宮島の弥山を開いて修行して、のちに鳥羽天皇勅命の祈願道場となったというものなんですが、大聖院・大願寺が真言宗(=海の宗派)の寺になったのは後の時代で、少なくとも清盛の時代(12世紀)以前は天台宗で空海とはほぼ関係がないので、空海どうこうというのは後の時代に成立したお話だと思われます(だからと言って9世紀に大聖院が存在しないという意味ではないです)。

治承4年(1180年)の「高倉院厳島御幸記」では大聖院を「厳島の座主(ザス=寺のトップ)」とあり、厳島神社の儀式の別当として法会を行なっていた。
●別当とは「別に当たる」という意味で、何かの職につくとくっついてくる職のこと。つまり、大聖院の座主(寺のトップ)=厳島神社の責任者ということ。実際に、大聖院の座主は江戸時代においても厳島神社を運営する責任者の三家の一つに挙げられている。

戦国時代
天正15年(1587年)には大聖院の座主が細川幽斎(ホソカワユウサイ)に連歌の発句をお願いしています。また天正18年(1590年)には連歌師の里村紹巴(サトムラジョウハ)と共に連歌会を開催しています。また文禄元年(1592年)には豊臣秀吉が歌会を開いています。
歌について
連歌の興行を行うと、中央(京)から文化人・公家を呼び寄せ、また地方の有力者(しかもインテリ)を集めることになり、そこでは情報交換があり、地方の人たちは一つの歌を作ることで連帯感を持ちます。連歌の会は戦国時代では情報を集め、結束を高めるために行われる文化的なだけでなく政治的な色合いの強いイベントでした。連歌会が大聖院で行われたということは、大聖院にはそれなりの政治力があったということです。

明治
明治維新があり、神仏分離を迫られ、厳島神社から大聖院は切り離されます。厳島神社の神の本地仏である十一面観音菩薩が大聖院にあるのはこの神仏分離の時からです。つまり保護・避難のために移動したわけです。実は弥山周辺の施設は大聖院の管理建物でした。それが現在は「弥山信仰=厳島神社」という図式になっているのは、おそらく廃仏毀釈から弥山の施設を守るためだったと思われます。「宮島は神の島」という信仰(というよりは設定)は明治の廃仏毀釈から文化財を守るための苦肉の策だったわけです。
●神仏分離に反対して意見書を出しているのですが却下され、神仏分離された。
●当時は「赤=仏教的」とされ、厳島神社と大鳥居も赤い柱を削って「白」くさせられた。その後、赤に復帰したがそのくらい神仏分離・廃仏毀釈は激しかった(厳島神社ですらこの有様)。ただし、神仏分離・廃仏毀釈の程度は地域によってかなり違う。


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